とある小説家の恋愛奇譚


「仙川薫」

リビングに戻れば悠々と本を読む彼。にこりとかおをあげる。
「なんだい」
「なんだい、じゃないわよ!もう本当になんであんなこと言ったのよ!」
「いやあだって、そりゃ見知らぬ男が家にいて、彼もびっくりするだろう。だから、彼氏ってことにしておいたのさ」
「あんたって人は…!」
私はギリギリと拳を握るが、肝心のことを思い出す。あぶない。彼の余裕の顔を見ると自然とイライラが募っていく。
ふー、と落ち着くよう呼吸をして私は彼の目の前のソファに座った。
「仙川薫」
「なんだ」
「あんた、私の兄の親友だったのね」
その言葉に。
彼は初めて動きを止めた。
「……」
ぺらり。紙をめくる音。
「ああ、そうだけど」
それはまるで予想していたかのような口ぶりだ。
ああ、何故すぐに気付かなったのだろう。
ここ最近忙しく、彼の正体をあまり気に留めていなかったのもあるのだが。
手紙には、兄の日常生活がたまに書かれていることがある。そこには親友の仙川薫という男がいて、物書きで、とても有名な作家で、少し変わっているが、良い友達だ、とあって。
そして、兄から彼のデビュー作を一冊送ってもらっていたのだ。
「ねえ。もう本当に答えてほしいんだけど。仙川薫、あんたは何しにここへ来たの?」
「……」
彼は頁をめくる手を止めた。
兄がここへ来させたのか、それとも興味本位で来たのか。
「……答える気はない、と言ったら、どうする」
彼はしばしの沈黙の後に答えた。
「……8月に、私はここを出るわ。そのときまでにはでてってもらう」
彼は顔を上げた。先ほどとは打って変わって、まっすぐと表情のない顔でこちらを見る。
「京一郎が結婚するから、か」
「ええ。それを機に戻ろうと思う」
「そのあとはどうする」
「日本の大学に編入するわ…て、そんなことどうでも良いでしょう。ねえ、ちなみにだけど、京一郎さんはこのこと知ってるの?」
「……」
彼は何も言わない。その無言は知っていない、ということへの肯定だ。
私は口を開こうとしたときーーーーー

ジリリリリン。

電話の音が家に響く。私は小走りで受話器を取った。
「はい」
『あ、朱里?僕だよ』
「きょ、京一郎さん……」
噂をすればなんとからやら。私はちらりとかを振り返る。
そして、少なからず驚いた。
彼はソファに身を沈めて、息を殺しているかのようだった。なにもわからない瞳が鋭い刃のようで…。
ふむ。あながち兄関係で間違いなさそうだな。
「ど、とうしたの?」
『いや、ちょっとね。仙川薫っていう、お兄ちゃんの親友がいるんだけど……
朱里のお家にいたりしないかい?」
「仙川薫……」
私は彼を視界に入れながら、話を続ける。
「……そ、その人がどうしたの?」
「ああ、三週間ぐらい前からかな、姿を消しちゃってね。家にはもちろん、携帯も繋がらないし、おかしいなと思ってね。家を開けることはあっても一週間ぐらいがだいたいだからね………もしかしたら、そっちにいるのかもしれないって思って」
どきりと、心臓が跳ねる。
今すぐ「ここにいます」と言いたいところだったが……
当の仙川薫はというと、彼はじっとこちらを見つめていた。その表情に、私はびくりとする。
その目はまるで、縋るような、存在を消したいと願うような。
あるいは、泣きそうなのを堪えるようで。
ーーーーそれは、あの雨の日に出会った時と同じ表情。
するりと、口から自然と言葉がすべり出る。
「………いや、来てないよ。その人、ここの住所も知らないんでしょ?」
「んー、でも朱里の手紙書く時そばにいたからなー、と思って」
その言葉にピンとくる。
そうか、だから彼の手に住所を走り書きしたメモが握ってあったのか。
私は納得したが、とにかく否定し続けた。
「まず顔もわからないし。知らない人なんて家にあげないから」
「そうか……あー、もうどこ行ったんだか」
残念そうな兄の声。
「早く見つかると良いね」
「ああ。実は、結婚式の時にね、彼にスピーチを頼もうと思っていたんだ」
「そうなんだ。なら、なおさらだね……京一郎さん、結婚おめでとう」
「ありがとう」
「私ね、8月に日本に帰ろうと思うんだ」
「ほ、本当かい?!」
「うん…。て、まず大学も卒業したこと忘れてた。手紙に書こうと思ってたから」
「朱里、おめでとう!!」
受話器の向こうから、兄の嬉しそうな声が聞こえて来た。
「そうか、卒業したのか……院にはいかないんだね」
「うん。日本の大学に編入しようと思って」
「嬉しいよ。今日はお祝いだ。母さんたちにも伝えておくね」
「うん。よろしく」
「あー、こんな時に、あいつがいたらなぁ」
「あはは……」
あいつとは、仙川薫のことだろう。
「ほんと、どこにいるんだか」
兄の困った声。その様子じゃ、本当に仲が良かったんだな。
「取り敢えず、日本に帰ったらお祝いしようね。結婚式とか色々あって遅れてしまうかもしれないけど、絶対にしよう」
「うん…ありがとう」
それから、二、三言話して電話は切れた。
私は受話器を置き仙川薫を見る。
彼はまたなにを考えているかわからない顔で、本を開いていた。少なくとも、先ほどの絶望感溢れる顔つきではなくなっていることは確かだが。
「……京一郎さん、心配してたよ」
「………」
「迷惑かけてる気があるなら、一言連絡でもしなよ」
「……」
なにも言わない彼に私は肩をすくめ、この話はやめた。
取り敢えず、まだ出たくないってことね。
私は夕食を作ろうとキッチンへ足を向けたとき、ぽつりと彼が言葉をこぼした。
「……ありがとう」
「え?」
振り返ると、彼はまたこちらをまっすぐと見つめていた。
そのありがとうはあまりにも真剣で。
「うん……別に」
私はこしょばゆくてすぐに目をそらした。
「で、腹減った」
「あーはいはい。わかってた。うん」
「オムライス、で、クマのイラストつき」
「はいはい!ていうかなんなのよ、そのリクエスト!大の大人が…」
いつもの彼に戻り、私は再びため息を吐いた。
しかし、人間態度が変わるとこんなにも違うものなのだな。
なんて、思いながら。

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