とある小説家の恋愛奇譚



一悶着終えて、京一郎さんは帰ると言い出した。
「ビジネスホテルは取ってあるんだ。それに、明日の早い便で帰ろうと思っているから」
「そっか」
京一郎さんは玄関で靴を履き、くるりと振り向く。
「薫、わかってるとは思うけど……」
「ああ。近いうちに帰る。本当に迷惑かけたな」
「いいよ。無事でいてくれたなら何よりだ。…それと朱里。帰る日程が決まったら教えてくれ。迎えに行くからな」
「うん。ありがとう」
「それじゃあ」
「気をつけて」
パタン。扉が閉まり、京一郎さんは消えて閉まった。
呆気なく、それは過ぎ去って言った。
「……はー、びっくりした…」
「朱里」
頭上から声が聞こえた。それと同時に、大きな手がふわりと載せられる。
「な、なによ」
私は身じろいだが、彼はそんなこと気にせずただ頭を撫でる。とても優しい手つきで。
「ありがとうな」
……彼の気持ちに気づいてしまった今、なんのこと?などと惚けることはできない。
「……別に」
「明後日にでも、この家は出て行くよ。世話になった」
「……引き止めるつもりじゃないけど、大丈夫なの?」
もう、外に出て。
まだ、傷だらけのくせに。
「……まあ、いつかは諦めなれけばいけないからな。もういい加減腹をくくらないと」
私は改めて彼を見上げた。
整った顔は、怖いくらい美しくて、儚げで。
口元の微笑は、諦めの言葉しか、吐き出さない。
こんな顔をさせる京一郎さんに、彼の鈍感さに、私はまた胸がムカムカとするのを感じた。
「おい、怖い顔してるぞ」
その言葉に私は顔をさっと伏せた。
「してないわよ」
仙川薫のせいよ。
「どーだかな。くわばらくわばら」
「そのくわばらっていうの、やめなさい」
彼は苦笑しながら、最後にぽんぽんと頭を撫で、手を離した。
「今日の晩飯は」
「サーモンのムニエルよ」
「レモン忘れるなよ」
「どこの関白亭主よあんたは!」



ーーーそれから二日後。
なにがあるわけでもなく、彼はあっさり家を出て行った。
長いような短いような彼との生活は幕を閉じたのだった。

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