とある小説家の恋愛奇譚
4,線路は続くよどこまでも
ーーーー薫、もし良ければ……
「……る。……がわかおる」
その呼び声に、薫はふと目を開けた。
そこは結婚式場のホテルのロビーで、目の前には見知らぬ女ーーーいや、見知った顔の女が立っていた。
膝丈の紺のワンピースに白い肌がよく似合う、すらりと伸びた足。猫っ毛の髪をハーフアップにした色は薄い色素の茶である。
相変わらずその目はクリリと大きく開かれ、よく通った鼻筋の下にある桜貝のような唇は少しとんがっている。
「仙川薫」
「……朱里か」
「どうも。久し振り」
彼女は薫の横にストンと座った。ふわりと鼻をかすめるその匂いは、約2ヶ月ぶりに嗅ぐ彼女のもの。
なにを話すわけでもなく、二人して黙ったまま、豪華に飾り付けられた屋内のガーデン広場を眺める。
「……日本は、相変わらず暑いわ。よくこんな中生活してるわね」
「大半は大体冷房のきいたところで活動してる。暑いのは外だけさ」
「そのよーですね…」
「……部屋はもう探したのか」
「ええ。大学の編入試験も終わったから、来月から大学に通うわ」
「お前は相変わらず頭が良いな」
「この2ヶ月間、誰かさんに煩わされることなくたっぷり暇を費やしたので」
「……お前、いくつだ」
「19よ」
「まだ未成年じゃないか」
「それがなによ」
彼は苦笑した。
「そうか。頭が悪いんじゃなくて、まだお子ちゃまだったってことだな」
「な、失礼ね…」
からかう薫に、シュリは心の中で呟く。
そーいうあんただって、二十代のくせしてあんな小説書くんだから。
ーー歳じゃなくて、その人の過去や経験じゃないの。
それからまた無言が訪れる。
「……スピーチをすることになった」
「……そう」
「彼女も、優しい良い人だ」
「うん。そうね」
京一郎さんの婚約者、相原夏樹さんには日本に戻ってから数回会った。いや、彼に会うときは必ず一緒についていて。
穏やかな雰囲気をまとった、芯のある強い女性。嫌いじゃないなと思った。
「……俺は、なにをしてるんだろうな」
薫は背もたれに背を預けて、高い天井を仰ぎ見た。
天窓のようになっているため、太陽の光が差し込んでくる。その眩しさに、薫は目を細め手で遮った。
「………」
彼の中で、まだ片付かない感情がたくさんあるのだろう。しかし、もう立ち止まれる猶予はない。
朱里はこればかりはなにも言えないので、返事を返すこともできず、黙って庭を見つめていた。
ーーーー朱里、どうしたんだい?
ーーへ?
ーーーーいや、眉間にしわ寄せてから。
ーーあ、いや、なんでもない。ちょっと、疲れちゃって。
ーーーーそうだよね。まあ、引越しやらなんやらで色々あったからね。
ーーうん。
あれから、京一郎さんを見ると考えるのは、仙川薫のことだった。
兄は私と違って表情豊かで、ころころと色を変える。見ていて飽きないのは事実だ。
そして当然、特別な相手にだけ、特別な表情を見せる。
愛しい人を愛でるかのような幸せに満ちた顔を夏樹さんへと向ける。それは妹ながらにして、同じ場にいたら恥ずかしくなるぐらいの時もある。また、お互い顔を赤くさせながらしどろもどろの取り繕う姿だって、カップルのそれだ。
しかし、仙川薫にとって。
その光景は、どれほどまでに心を痛めたのだろうか。
誰かをを好きになったことは、あいにくない。けれど、彼の心の叫びがわかり、それに気付かない兄の鈍感さ、そして、全てを知りながらなにもできない自分に、腹がたつ。
悩んでも解決しないことを悩んでいると、自然と眉間にシワが寄って行くのだ。
ピリリリリッ
携帯の着信音。それは仙川薫のものだった。
「もしもしーーーああ、京一郎。うん、うん……」
彼は立ち上がり、ひらひらとこちらに手を振ると、電話をしながらその場から去っていった。大方、京一郎さんと打ち合わせでもするのだろう。
私もそろそろ時間なので、立ち上がり、エレベーターの元へ足を向けた。
ーーー彼らのことばかりにうつつを抜かしてはいられない。
今日は、私も頑張らなければいけない日なのだ。
「アンナ……」
もう、前みたいに逃げてしまわないように。
到着したエレベーターに、足を踏み入れた。