とある小説家の恋愛奇譚
ーーーしばらくの静寂を破ったのは、夏樹さんだった。
「仙川さん、大丈夫ですか?」
その一言に、京一郎は我に帰る。
「あ、ああ、そうだよ。えっと。とりあえず、顔を冷やすもの持ってこないと……すみません、冷たいおしぼりください」
近くのウェイターさんに声をかけながら、京一郎は今まで見たことのない朱里の怒りに、非常に驚いていた。
彼女は感情を表に出さず、冷静なタイプだ。しかし、イギリスに行って、京一郎と喧嘩しているのを見た時も驚いたが、瞳に怒りの炎を燃やして声を荒げる彼女は、まるで別人のようだった。
困惑を隠さない京一郎のよそで、派手にパンチを食らった当の仙川薫は、ヒリヒリと痛む頰に手を当てて、沈黙していた。彼にとっても先ほどのそれはインパクトが強すぎて、何が起こったのかわからなかった。
しかし、鮮明に彼女の言葉が脳裏で響き……。
「ーーー京一郎」
「なんだ?」
未だ状況の飲み込めていない京一郎を、仙川薫はまっすぐと見つめる。
その顔は、何かを決意したかのようだ。
ーーーそう、それは彼女なりの激励。
「お前のことが、好きだよ」
突然の言葉に、きょとんとする京一郎。
「…?僕も、好きだよ」
ーーそう、それは、あまりにも純粋な響き。
そして、それがこれからも変わることのない響きであるということ。
「………ああ。ありがとう」
仙川薫は苦笑した。
その顔は諦めというよりは、力が抜けて安堵したような、そんな表情で。
ますます京一郎は困惑したが、仙川薫はくるりと身体の方向を変えてしまう。
「さて、ちょっと追いかけるわ」
そう言うなり、さっさと長い足を動かして会場の出口へと歩いていってしまった。
「あ、薫……あいつも、どうしたんだろういきなり」
「とりあえず…そっとしておきましょうか?」
「そうだね……仲直り、できればいいな」