とある小説家の恋愛奇譚
ざわざわと、木々が音を立てて揺れていた。
木々の隙間からは満月がのぞいている。
「………風邪引くぞ」
ライトアップされたホテルの庭は、カップルがよく訪れる。しかし、珍しく今日は人がいなく、代わりに一人の女と、後から訪れた一人の男だけ。
肩をむき出したまま、何も言わない彼女に男ーー仙川薫は息を吐いて、自分の着ていたジャケットを肩にかけた。びくり、と細い肩が動く。
しばらくしてから、女は口を開いた。
「……ごめんなさい。殴ったりして」
その声は、ひどく小さく、少し震えている。
男は肩をすくめた。
「……ま、激励のパンチだったってことにしておくよ」
その言葉に、女は首をふるふると振った。
「……私がとやかく言うことじゃないって、そんなことはわかってる」
「…………ああ」
「でも、それでも、幸せだって言いながら、全然幸せそうな顔してないあんたを見てて、どうしようもなくイラついたのよ」
仙川薫に背を向けながら女は、まるで溜め込んでいたものを吐き出すかのように言った。
「……俺は、そんなに分かりやすかったか?」
「……ええ、簡単よ。だってね、あんたの小説、どれも報われない恋をしてる人が必ずいるのよ。主人公であろうが、それが脇役であろうが、絶対にね」
その返答に仙川薫は、あーあ、と空を仰いだ。
「誰かに言うつもりも、ましてやバレるつもりも、なかったんだけどな」
ゆっくりと、目を閉じる。
ーーー薫。今日は紹介したい人がいるんだ。
それは、突然のことだった。
大学を卒業して会う回数の減ってしまった友人から、久しぶりにレストランへ行かないかと誘われた。
締め切り間近の原稿を放って行った俺は、横に見知らぬ女の人と立っている彼を見て、世界がぐるりと一回転したような気分に襲われた。
「こちら、相原夏樹さん。彼女と9月に結婚することになったんだ」
相原夏樹さんは、微笑みながら頭を下げる。
「親友の薫に、1番最初に言いたくてさ」
その瞬間、全てのものが崩れ去っていくような、そんな気持ちになった。
「…大学四年の時、二人で飲みに行ってな。酔ったあいつは、自分の身の上のことを話し出した。そして、自分は結婚することはできないだろうな、なんて言うからな。俺は、じゃあこの恋は捨てなくてもいいのかと、期待したんだ」
ぐっ、と両手を握りしめる。
「告白できなくてもいい、この関係のまま、ずっとあいつの側にいられたらと思っていた」
「……」
「だが、結局京一郎は結婚した。良かったんだ、結婚することは。いつかは受け入れなければいけないことだと思っていた。
ーーーこれが、この想いが、恋でなかったなら、な」
そっと、握りしめていた手から力を抜く。
「相原さんに、すごく嫉妬したよ。殺してやりたいぐらいに頭が熱くなった。それと同時に、当たり前だが、あいつの中で俺はただの気の合う親友であったことにも、やっぱりショックだった」
どうしようもない喪失感を胸に、いつも通り京一郎と接していた。
「それからは……まあ、最後の抵抗というか、全部を投げ出したくなった気持ちのまま、お前のところに逃げ込んだわけだ」
彼は眉を下げて微笑んだ。
「……朱里。正直お前には、助けてもらってばかりだな」
「……迷惑かけて、の間違いでしょ」
「……はは、そうだな」
朱里と呼ばれた女は、やっと振り向いた。
目の前の男とまっすぐに見つめ合う。彼女には、彼が泣く数秒前のように見えた。
しかし、微笑んだまま言葉を発する。
「……告白したよ」
「………」
「ま、かなり呆気ないものだったけどな」
ぽろり。
彼の切れ長の目から一粒の涙が溢れ、頬をつたう。
「ほんとうに、おれは」
片手で目元を覆う彼に、朱里はジャケットを頭にふわりとかけさせた。
そして、震える肩を見つめながら静かに話しかける。
「……アンナが言っていたわ。自分が選択してきた過去に、文句を言う口がついているならーーこれからの選択や進んで行く道が、良いものになるようにせめて神様にお祈りしなさいって」
それからしばらく、黙って涙をこぼす彼の横に立っていた。
月の光が噴水に反射して、キラキラと輝く。
重力に逆らって湧き上がり、呆気なく落ちて行く水。そこに生命を吹き込む月の光は、太陽とはまた違う暖かさがあって。
「ーーーーああ、そうすることにするよ」
ジャケットをとると、仙川薫は優しげに微笑んでいた。目はしが赤いのを見て、朱里は仕方ないと言う風に息を吐く。
「しょうがないわね。仙川薫、貸し一つよ。私に人生についてとくと説教されて、感動のあまり泣いてしまったと言う分かりやすい嘘を本気のように演じなさい」
「……それは借りにはいるのか」
彼は肩をすくめる。
「…しょうがない、そういうことにするか」
木々がざわざわと揺れる。
「…戻るわよ」
「はいはい……朱里」
「なに?」
「………ありがとうな」