おやすみ、お嬢様
毎日、忙しいのに。昨日だって終業間際にトラブル起きて遅くまで残業になったの知ってる。いち事務員の私はさっさと定時に帰ったけど。

で、一週間疲れたあ、って小学生並みの時間に寝ちゃったんだけど。それで今日は早起きできたのよね。

「……おうちで食べる」

申し訳なさで逆にふてくされたような声になってしまった。榛瑠は微笑して、用意しますね、と言ってキッチンに向かう。

私はとっさにその腕を掴んだ。

「お嬢様?」

榛瑠が不思議そうに私を見る。ああ、どうしよ。言いたくない。でも、言わないと。

「あの、……ごめんなさい。ありがとう」

下を向いて小声で言った。と、榛瑠がソファの背から乗り出す形で私の頬を両手で挟んで持ち上げた。

「そういうかわいいこと言ってると、私に食べられますよ?」

にっこり笑った彼の顔が間近にせまって、おもわず身をひく。

「それいらないから! ごはん食べる!」

榛瑠が笑いながらキッチンに入っていく。まったくもう、油断も隙もない。

オープンキッチンのカウンターの向こう側の彼を見ながら、私はソファの上に足を伸ばした。

彼は手際よく動いている。私はそのまま膝を抱えた。

こういう時って、一般的には、たぶん、 彼女のほうがキッチンに立つのよね。榛瑠は気にならないのかな。いいのかな。嫌だって……思われたら嫌だな。

「あのね、榛瑠」

「はい?」

「あのね、この前気づいたんだけど。私ね、今まで一度もお米をといだことないの」

「ああ、そうですか」

食事の準備の手を止めることなく、榛瑠はなんの驚きも興味もないかんじの返事をした。

「それでね、厨房行ってさせてもらったの。いま、厨房担当してくれてる人知ってたっけ?」

「割と年配の女性でしたよね」
< 8 / 46 >

この作品をシェア

pagetop