妖精の涙【完】
…………ポタっ。
ちょうど離した右手に水が落ちてきた。
まさか雨か、と思ったが今は木の下で空は快晴だ、と思い首を傾げながらその水を左手で拭った。
………ポタっ、ポタっ。
今度は2粒落ちてきた。
さすがにおかしいと思い見上げると、女性が1人、はるか頭上の枝に座り顔を隠して泣いていた。
俺はハッと目を見開き、しばらく動けずにいた。
………ポタっ。
目元に当たり思わず瞬きをした瞬間、彼女はいなくなっていた。
どこに行った、と思い目を凝らすもやはりおらず、視線を下ろすとすぐ近くに気配を感じた。
バッと振り返るも誰も見当たらず、右、左、と見ても誰もいない。
おかしい、奇妙だ。
そう思い木から離れようと背中を向けると、ぐいっと右手の裾を掴まれ動けなくなった。
今、誰かが俺の後ろにいる。
振り返れば、どうなる…
「う、ひっく、ひっく…」
彼女の泣き声がしたが、その声に俺は目を閉じた。
「泣くな」
「うう…ひっく…」
「泣くなよ」
そう言って振り返り、その震える肩を抱いた。
「ずっとここで何やってたんだ、いなくなって随分探したんだぞ」
腕の中にある柔らかくて温かい感触をもう離すまいと、ぎゅっと閉じ込める。
顎の下にある泣いて熱くなった頭に頬を寄せた。
「なあ、答えてくれよ…」
腰に腕を回し、髪に手を差し込むと懐かしい匂いがふわっと近づき、腕の中にいる彼女をあやすように優しく問いかけた。
落ち着いてきたのか、嗚咽がだんだんと小さくなっていき、ついに話してくれた。
「ずっと、ここにいました。足が、離れられなくて…」
その言葉を聞いて肩越しに彼女の足元を見ると、足首から先と地面が一体化していた。
それを見てハッと息を飲んだ。
「木があって、気づいたらここにいました。最初は自分が何者なのかわからなくて、木と一緒にいたのですが、あなたが来るようになって、だんだん自分が誰なのかを思い出してきて…そうしたら、木が私を外に放り出したんです。でも、あなたがここからいなくなりそうになって…そうしたら、体が元に戻って…」
「それで、俺はどうすればおまえをここから連れ出せる?」
「えっと…」
待っていられずにたまらず聞くと、俺の腕の中でもじもじとし始めた。
「キス、してください…」
「っ…」
言われた単語に体が固まった。
そんな俺の変化に彼女は慌てたように説明した。
「あ、ええっとですね。この木は時機に枯れるんです。妖精界の門の下にあった木が根を伸ばしてまたここに育った木なんですけど、この木は元々は妖精界で自生していた木で、えっと、砂になった私を吸収してまたここで新しい生を全うしようとしているみたいで…結果的には私はこの木のおかげで助かりました。それで、妖精はつがいになるときにキスをするそうです。妖精は相手を一生変えませんから…それで、この木は私を本当は逃がしたくないんですけど、応援してくれているというか、キ、キスすれば見逃してやるとかなんとか…」
「もういい、わかったから」
説明が長いのには慣れていると思ったが、ずっとお預けをくらっている身には少々我慢できなかった。
ごにょごにょと話す彼女の頬に右手を添え、唇を親指でなぞるとピタリと言葉が止まった。
額の傷も、背中の傷も。
心の傷すら愛しい。
おまえはいつまたどこに行くともわからない。
その自由を奪って閉じ込めておきたい。
俺の前からいなくなるなんて、もうしないでくれ。
だが、きっと自由を奪うことは俺にはできないのだろう。
だからおまえがどこかに行くというのなら、俺も一緒に連れて行ってくれ。
「目、閉じてろよ」
いつまでも目を瞑らない彼女にぶっきらぼうにそう言うと、さっと頬を朱に染めた彼女は俺の手から逃れて俯いた。
「すみません。瞳があまりにも綺麗で…」
「瞳?」
俺の?
「はい。ずっと思っていました。綺麗な闇色で…黒でも、紺でも、紫でもない、不思議な色だな、と」
「初めて言われたが…おまえがそれに気づけたということは、それほど俺の近くにいたからだろう」
「うええっと…?」
声を上ずらせた彼女にフッと声が漏れた。
可愛いやつだ。
「そんなに近くで見たいなら…見ていればいい」
俺しか見えなくさせてやるから。
お望み通り目を開けたまま触れた彼女の唇は予想以上に柔らかく、優しかった。
彼女を抱き上げ、俺はさらに深く口づけ囁いた。
"愛してる。俺の宝物"