姉の婚約者
 連れてこられたのは雑居ビルの地下にある薄汚いバーだった。前科がないとは思えないマスターがこれまた薄汚い布で薄汚いコップを磨いている。もうあきらめろよ。汚物で汚物を磨くな。
 変な臭いのお香がもくもくと煙を上げていて、少し店内は煙たい。その煙を縫うようにして謎の音楽がなっている。謎すぎて、実際の音量より大きく聞こえる、というか耳につく。
 伊沢さんは前科のありそうなマスターと私たちを指さしながら何やら喋っている。姉さんは怯えて私の腕に抱きついている状態だ。

「姉さんはこの店、来た事ないの?」

「ないよ。なにここ。怖い。」

 怖いっていうか、異様っていうか。普段の生活ではまずお目にかかれない人々がいる。緑髪を長く伸ばした女の人とか、ボンデージ着てるお兄さんとか、こんな田舎町にもいるのね。

「やっぱ父さんが言うように、伊沢さんってヘンなバンドの人なんじゃないの?」

 私は姉さんに聞いてみる。

「でも、本物も紛れてそうよね。」

 まあ、確かにいてもわかんないな。あ、伊沢さん戻ってきた。

「ん、これ」

 雑に手渡してきたな。なに、この赤いの?伊沢さんは姉さんにメニューを手渡す。
伊沢さんが私に手渡してきたのは、赤いカクテルグラスに入った、赤い液体だった。

「伊沢さん、これ血じゃないですよね?」

 一応確認してみるが、多分違う。
血、だったんなら、こんなに色が鮮やかで、向こうが透けて見える位に透明ではないはずだ。伊沢さんは片眉をあげて答える。

「まあ、決めるのは飲んでみてからでもいいだろ?」

 嫌だ。何か盛られてるかも知れないし。手に持ったままそのまま姉さんと見比べていると、ひょいと伊沢さんがグラスを持ち上げて飲み干した。

「別に警戒するものは入っちゃいねえよ。」

 口を乱暴に拭うその仕草に少しどきっとする。ほんのわずかだけど、獣じみた、もしかしたら本当に”それ”なんじゃないかと思ったのだ。それを払しょくしようと思って

「血なんか入ってないんでしょ?」

「さあな。」

 聞いてみたけど、はっきりはしない。その問答は飽きたとばかりに伊沢さんはさして面白くもなさそうにテーブルに肘をついている。イラっとして、私は立ち上がった。

「帰ります。姉さん、かえ……ねえさん?」

 いなかった。さっきまで同じテーブルにいたのに。私は伊沢さんを見る。

「俺は隠しちゃいねえよ。」

「嘘だ。」

私は探すためにその場から逃げるように歩き出す。
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