姉の婚約者
「いやだ。」
誰にも聞かせる人はいないけどそう口から言葉が出て行った。結局いつでも逃げられるようにと自転車できたけれども、来たことをすでに後悔し始めている。
でも、今は無職でウォークマンなんてホイホイ買い換えられるような身分じゃない。なんとなく取りに行かないと一生戻ってこないような気がするし。
しかし、夜の倉庫に来いたぁ、女性に頼むことじゃないよな。さっともらって帰ろう。それで優しい伊沢さんだったら昨日のことは伊沢さんのなりすましの酔っぱらいの仕業。そうでなかったら、姉さんは正気じゃない。病院のお世話がいるかもしれない。……納得はできないけど、とりあえずそんなところで。
あの明かりのついているのが伊沢さんが番をしているという事務所か。あー、自転車前に止めていいのかな?なんで私、化け物かもしれない奴に対しての礼儀を気にしてるんだろう。そんなことをうだうだ考えているとふいにガラガラと事務所(と思わしきプレハブ)の扉があいた。
「あ、ゆり子ちゃん。」
「わっ!!」
見つかった!私は伊沢さんの持っていた懐中電灯で照らされ思わず顔をしかめた。
「あ、ごめん。眩しかった?」
気が付いた伊沢さんがあわてて懐中電灯を切った。そのなんだか間抜けな動作になんだか逃げる気を失ってしまった。
「大丈夫ですよ。それより私のウォークマン返してください。」
「ああ、はいこれ。」
伊沢さんは私のそばに来ると制服のポケットの中から私の青いウォークマンを取り出して、私に差し出した。思っていたよりもはるかにスムーズに事が進んで私は少し面食らってしまう。
「あ、ありがとうございます。」
だから返事も少し浮ついた。
「昨日はごめんね。怖かったよね。いきなり連れて行ってごめんね。」
「あ、あの別に……」
なんで今日に限ってこんな優しいんだよ。昨日の酒場のこと聞けないじゃないか。
「い、伊沢さんはここで何を警備してるんですか?」
やっちゃった。話題から逃げちゃった。伊沢さんは少し驚いた顔をしていたけれど何も追及はせずに私の質問に答えてくれた。
「実は俺も知らないんだよね。今日はいつもの人が来られなくなっちゃって代わりなんだ。車の部部品倉庫って聞いてるからきっと部品じゃないかなあ。」
なんてあいまいな……。
「知らないもの守ってんですか?」
思わずあきれた声が出る。
「仕方ないじゃないか。来たらいきなりこうだったんだよ。」
「そりゃ、そうですね。」
「だろう?僕の今日の仕事はここで一晩過ごすことなのさ。」
少し気取って伊沢さんが言う。
「シンプルですね。何か起こった時のためにいるんじゃないんですか?」
「なにも起こらないためにいるんだよ。」
なるほど。理にかなっている。
「それにしても私のウォークマン、中身見てませんよね?」
「心配しないで、見てないよ。」
「それなら、いいですけど」
私は手に持ったままだったウォークマンを鞄にしまった。しかし、いつのまに落としたんだろう?昨日、酒場では一度も出してないのに。