姉の婚約者
 そろそろ帰ろうかと思って、伊沢さんに挨拶しようかと思った時だった。

「ああ、そうそう。昨日、僕とマスター見分けたんだってね。すごいなあ。今までだれにも見破られたことなかったのに。」

は?マスター?誰・だ?

「なに、の話……ですか?」

「昨日、君たちを酒場に連れてった人の話だよ。」

「人って、伊沢さんじゃ、なかったんですか?」

「僕と体と共有しているもう一人の事だよ。」

 意味が分からない。伊沢さんが口を開いた。

「昨日、君たちを酒場に連れていったのは僕じゃない。僕の中にいる吸血鬼のマスターが連れてったんだ。」

マス、ター?

「そんな人、知らない。」

 知らない、といってから思い出した。「吸血鬼さ。」にやりと笑ったその顔を。

「君に会いたいと、マスターは言っている。」

「……私は会いたくない。

 おびえる私を見て気の毒そうに伊沢さんは言った。

「ごめんね。」

「来ないでっください!」

 私は無我夢中で自転車のほうへ走った。

「あっ!!」

 地面の小石に躓いて派手にこけてしまう。っなんだよ!もう!痛いし!怖い!ふざけんな!

 伊沢さんがこちらへ来ようとするのが視界の端に映った。やばい!思わず、自転車の止めてあるほうとは違う方向に走ってしまう。そう気が付いた時には、目の前には切り立った斜面。……登れそうには、ないか。斜面は崩れかけており、地面にはたくさんの石や土が落ちている。ためらってる暇は、ない。私は石を一つつかみ上げた。
 これで迎え撃つしかない。後ろからは何やら言いながら走ってくる伊沢さんがいる。もう来たか。振り向かなくてもわかるのは伊沢さんが油断していること。
5、4、3、2、1……今だ!

「そっち!危ないかっ!」

「っ!!」

 私は伊沢さんに手をつかまれた瞬間、渾身の蹴りを伊沢さんの脛に繰り出した。直前、伊沢さんが何か言っていたような気がするがよくわからん。体勢を崩した伊沢さんの頭に思いっきり石をぶつけた、はずだったが、結局狙いが定まらずに伊沢さんのこめかみ付近をかすめただけだった。だが、ダメージは通じたらしく伊沢さんはその場にうずくまった。
 その機会を逃すまいとして私は伊沢さんの横を駆け抜けた。やった!成功したんだ。呻く伊沢さん。そのまま走って元の事務所の前まで逃げ切る。
 ……伊沢さんは追ってきてない、よし。
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