春雷
「私‥貴方をあきらめたくない‥」

「琴葉さん‥」

「紺さんが、好き。愛してる。
‥離れたくない。
でも、今は、側には行けない」

彼女は涙を溜めて、震える声で言った。

雪が
ちらり、ほらりと暗い闇から落ちてきて
彼女の頰にふわりと着地した。



「じゃあ、次 、会う時は
あなたをさらっていいですか?」


「さらうって‥何から?どこから?」


「もちろん、貴女を、
ご主人からですよ。僕は本気です。次は、引かないよ」

彼女の肩に少し積もった雪を、手の甲で払った。

ちらちらと降る雪が月明かりで光っては落ちる。

沢山の言葉が頭をよぎった。
だけど何を言っても陳腐だ。

愛してる
愛してる
愛してる‥


「私、今はそっちには行けない‥」
涙が、ぽろりと、美しい瞳からこぼれ落ちた。
本当は行きたい、そう顔には書いてある。
そう願っている。


彼女は僕の手を握った。
僕も強く握り返した。

僕の右手の甲には、あの日の傷が残っている。
彼女はいつもそれを悲しそうに見るが、僕には自慢の傷だ。僕の手は彼女を守るためにあるのだから。

「僕、貴女に着いてきてほしいなんて
言いましたっけ?」

そう言って、僕の手を見つめている彼女に僕はイタズラっぽい目で覗きこんでみた。

泣かないで。
美しい人。

「今はもちろん、僕だって、ついてきてほしいなんて言いません。だけど、次は」



「次に会ったら、あなたをさらっていきたい。
いいですよね?」


たまらず彼女を抱きしめた。

彼女も強く僕を抱いて、何度もうなづいた。

もう外は寒くて、手の感触が鈍いのに
胸の中だけ、何かとてつもない激しいものが
うずまいていた。

「琴葉さん、これが、終わりだと思わないで。始まりだから。これは始まったんだよ‥」

自分に言い聞かせるように、
何度も何度も呟いた。

恋というのは
なんと辛いものなんだろうか。

今、この手の中にある彼女を
手離さなければならないのは
身を切る以上の辛さだった。



そうして僕は
三日後

後ろ髪をひかれまくって
出発した。



< 101 / 110 >

この作品をシェア

pagetop