月夜に還す
 「みょ、名字がっ」

 「え?」

 初秋の夜。聞こえるはずのない蝉しぐれを頭の奥から追い出したくて、幸香は思いつくままに口を開いた。

 「名字が違ったから、最初は分からなかったの。」

 「ああ。離婚した母の旧姓が『高柳』なんだ。俺のこと全然気付かなかった?」

 「…こうくんに似てるな、とは思ってたよ。名前も同じ『こうた』だけど、漢字まではよく覚えてなかったから…」

 「あははっ、そうだな。小四では習わない字だしな。」

 『高柳課長』の時には見せたことのない無邪気な笑いに、幸香の胸がトクリと波打つ。

 「声だって違うし。」

 「中学校に入ってすぐ、声変わりしたんだ。」

 「全然そんな話にならなかったし。」

 「仕事中だったからな。ゆきちゃんは定時ですぐに帰ってしまうだろ?」

 「仕事もないのに残業なんて出来ないよ…。」

 「ははっ、真面目なところは変わらないな。」

 こどもの時とは違う、大人の声をした彼との、軽快な遣り取りはあの頃に戻ったみたいだった。
 あの頃もそうだったように、滉太との言葉の応酬で幸香が彼に勝てることはない。
 二十年も経って、こどもの頃と変わらないことがなんとなく悔しくて、幸香は口を尖らせて反撃を試みる。

 「そう言うこうくんこそ、私のことすぐ分かったの?」

 「もちろん。ゆきちゃんは全然変わってないからな。」
 
 隣に座る滉太が、三日月みたいに目を細めてからかうような笑みを浮かべている。

 「もうっ、どうせ童顔ですよっ。」

 プイッと顔を背けて、怒ったふりをすると、

 「ごめんごめん。」

 謝罪の言葉とは裏腹な楽しそうな声色に、彼の方を振り仰ぐと、目が合った。

 公園の街灯の薄明りの下、二人の瞳が絡み合う。

 滉太の瞳の奥には、何かを言いたげな光が宿っている。
 それがなんなのか分からないまま、幸香はその光から目を逸らすことが出来ない。

 二人とも身動きを止めたまま、しばらくの間見つめ合っていた。
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