月夜に還す
 (私が前にミルクティを飲んでたのを、覚えていたのかな。)

 今日までの五日間の間に、一度だけ休憩室で高柳と一緒になった。
 
 先に休憩室にいたのは幸香(ゆきか)で、高柳は後から入って来た。
 上司にあたる彼に会釈した後、手に持っていたミルクティの残りを一気に飲み干したのは、決して赴任したての上司と休憩室で一緒になったのが気まずかったわけではない。

 その時飲んでいたミルクティは、今手に持っている缶と全く同じものだ。

 「もし間違っていたらすまない。加藤とは前に会ったことあるよな?」

 「……そう、ですかね…」

 まだ熱いくらいの缶を両手で握る。

 少し前までは夜になっても湿気を含んだ熱い空気が澱んでいたのに、今夜の夜風は少し冷たくて、缶の温もりが冷えた手先にじんわりと温かい。

 「加藤幸香、だろ。」

 「そうですが…」

 隣からじっと覗き込むように見つめてくる高柳の方を、必死で見ないように幸香は努める。
 自然と手元の缶を握る手に力が入った。

 「もう君は忘れてしまったかな…二十年近く前に隣の家に住んでた奴のことなんて。」

 寂しそうな声に、胸がキュッと絞られる。
 
 「十九年……」

 「え、今なんて?」
 
 ボソボソと口の中で呟いた幸香の言葉を、高柳は聞き返す。
 
 (ここまで言われたら、腹をくくって観念するしかないかな。)

 「隣に住んでいたのは十九年前です。」

 「覚えてたんだな。そうか、やっぱり。…元気そうで良かった。」

 『上司』声から一気に緩んだその柔らかな声色に、心臓がドクリと波打った。

 「高柳さんもお元気そうで、何よりです。」

 「その呼び方はちっとも嬉しくないな。俺はゆきちゃんに前みたいに呼んで欲しい。」
 
 「こうくん……」
 
 もう二度と呼ぶことが無いと思っていた懐かしい呼び名が、口からポロリとこぼれ落ちる。

 強い風が吹いて流れてきた雲が、さっきまで見えていた三日月を少しずつ覆っていく。
 
 かすかな疼痛と共に、一気に二十年前に戻された。
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