人魚姫
「それがわしの願いやったし、わしはあれに約束したんや」
「約束?なんの?」
「わしは医者やで」
「知ってるよそんなの」
町医者は言った。
今まで恋に落ちた人魚と人間たちの中で誰も試みようとしなかったこと。
「わしが人魚になるから、待っときやって」
琉海は驚いて思わず椅子から立ち上がった。
反動で椅子が後ろに倒れる。
町医者は深海の魔女から人魚が人間になる薬を見せてもらったのだそうだ。
そして思った。
自分の取り扱っている漢方薬によく似てると。
それは琉海も感じたことだった。
「もしかしてお爺さんが飲んでるそれがその薬?」
琉海はペットボトルに入った漢方薬を指差した。
「違う、これはただのボケ防止や」
なんだ、と琉海は肩を落とした。
やっぱり人間が人魚になるなんて無理なんだ。
「薬はできたで」
町医者は静かに言った。
「でもな、薬ができた頃にはわしはもう歳を取り過ぎてしもうとった、それに」
医者は深海の魔女を愛していたが、どうしても寂しかったと言った。
「わしもまだあの頃は若かったからなぁ」
医者は床に転がった椅子を起こすと琉海を座らせた。
深海の魔女との逢瀬の帰り道がいつも寂しくて寂しくて、そしてその寂しさの隙に魔が差した。
医者は行きずりの女と一夜を共にした。
女とはその夜限りだった。
でもそれから1年経ったある日、女がふらりと町医者の前に現れた。
正直、女の顔も覚えてなかったと言う。
女は生まれたばかりの赤ん坊を抱いていた。
『あの時のあなたの子です』
そして女は赤ん坊を置いていなくなった。
「そんなわしの子あるわけないやんか、っと思ったわ、だがなぁ」
町医者は眉を八の字にしててへっと笑った。
「遺伝子検査したらわしの子やった」
医者が言うのだ、間違いないだろう。
町医者はおもむろに机の上に飾ってある写真立てに手を伸ばした。