人魚姫
——大丈夫、僕を信じて。
手の平の上で書かれたその文字は頼りなく見える。
見えるのにその言葉はとても頼もしく感じた。
「分かった。信じる」
琉海がそう言うと男は嬉しそうにうなずいた。
「で、どこに行くの?」
——駅。
男はナフキンの隅っこに小さくそう書いた。
駅に向かう途中大きな公園の前を通りかかった。
その一角がぼんやりと明るい。
さっき東京タワーの上から眺めていた時も、街のあちこちに白い塊が見えた。
男に尋ねると桜だと言う 。
月夜に照らされる桜は白い珊瑚礁と同じくらいきれいだった。
海も素晴らしいが、陸もなんて素晴らしいんだ。
琉海は目頭が熱くなった。
夜風に踊らされるように白い花びらが舞った。
耳を澄ませば音楽が聞こえてくるようだった。
時間を忘れたように琉海は桜の木の下にたたずむ。
ふわりと琉海の肩に何かがかけられた。
琉海が返した男のコートだった。
日中は暖かかったが夜になると空気が冷たい。
「ねぇ、また桜を見に来ようね」
男はうなずき、『でも』と、また紙ナフキンを見せた。
桜があっという間に散ってしまうことを知った琉海は今のこの光景を目に焼きつけようと必死になった。
あたしには陸での時間は1年しかない。
次に桜が咲く頃はあたしはもうここにはいない。
くるくると回りながら白い花びらが舞い落ちる。
そうだ。
琉海は落ちてくる花びらを追いかけた。
男も一緒になって集めてくれた花びらは琉海の両手いっぱいの量になった。
それをふんわりとハンカチに包む。
「もういいよ、行こう」
琉海は最後にもう1度桜を見上げた。