蜜月は始まらない
プロローグ


玄関前の床に腰かけてスニーカーを履く後ろ姿を、廊下の少し離れたところからぼんやりと眺める。

慣れないこの家も、視界に映っているその広い背中も。全部がまるで夢の中にいるようで、現実感がない。

少し前までは──こんな日が来ることになるなんて、想像すらしなかった。

目の前にいるこの人と自分が、まさか──……。


スニーカーを履き終えたらしい彼が傍らのボストンバッグを手にしながら立ち上がったことにハッとし、慌てて近づいた。

ジーンズにチャコールのダウンジャケットという、シンプルでカジュアルな服装。
たとえこんなありふれた格好だとしても端整な顔立ちに常人以上の高身長を持つ彼は、一歩街に出れば人目を引いてしまうのだろう。

そして私自身も、彼の一挙一動にいつだって目を奪われてしまう人間のひとりで。

廊下との段差をものともせず、頭ひとつ分高い位置からいつもの静かな眼差しに見下ろされ鼓動が速まった。



「じゃ……行ってくる」

「は、はい」



落とされたセリフに、自分が彼に近しい関係になったことを改めて実感してじわじわと頬が熱を持つ。

こうやって玄関から彼を仕事へと送り出すのは、今が初めてだ。

私はどんな顔をしたらいいかわからなくて、つい敬語になりながらうなずいた。

それから、まさかこんなひとことだけで済ますのはよくないだろうと、動きの鈍い頭をなんとか回転させ言葉を選ぶ。



「あの……ケガには、気をつけて。がんばって、ね」



心からの自分の気持ちが、相手に届きますように。

そう思いながらまっすぐに見つめて伝えると、少しだけ、彼が目を見開いた気がした。

綺麗なその瞳の中に自分の姿があるのを見つけた瞬間、自分たちを取り巻く空気が温度を変えた気がして。どうしてか私は、ひどく緊張する。

けれどそれは、一瞬のこと。目の前の彼がボストンバッグを持ち直して肩にかけたのを引き金に、張り詰めていた何かが緩んだように感じた。



「ああ。ありがとう、華乃(かの)」



彼の声でまだ呼ばれ慣れない自分の名前に、性懲りもなくまた胸が高鳴った。

なんとかこくりと首を上下に動かした私に背を向け、最後までポーカーフェイスの彼がこのマンションの一室をあとにする。

閉じたドア越しに足音が遠ざかるのを聞きながら、思わず深く息を吐いた。


……本当に、今もまだ信じられない。

私と、彼……柊 錫也(ひいらぎすずや)くんが。

結婚を前提に同居している、婚約者だなんて──。
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