蜜月は始まらない
『──ううん。何も、変わったことはなかったよ』



……全部、忘れてしまっているなら。

それなら私も、なかったことにしなきゃいけない。

私の言葉を受けて、彼は少しだけホッとしたように口もとを緩めた。



『……そうか。なら、よかった』

『うん。あ、錫也くんも朝ごはんすぐ食べる?』

『ああ、ありがとう。もらう』



洗面所に向かった錫也くんの背中から視線を逸らし、朝食を準備する手もとへと戻す。

その指先が震えそうになるのを、私は必死で堪えた。

高校生でもあるまいしキスくらい……と思いたいところだけど、相手が相手なのでそうもいかないわけで。

あれから今日まで、おそらく表面上は、今まで通りただの同居人としての態度で接することができていると思う。

けれどもふとした瞬間あの夜のキスを思い出してしまう自分がいて、私は行き場のない羞恥心や気まずさを持て余していた。

あんなにも熱っぽい口づけをしておきながら綺麗さっぱり忘れてしまった錫也くんには、若干恨みがましく思う気持ちもあるし、同時にさみしくもある。

だけど、1番私の心に深く爪痕を残しているのは──彼が散々私の口内を堪能したあと不意に唇を離してつぶやいた、『間違えた』のひとことだ。
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