蜜月は始まらない
オーナーシェフに見送られながら店を出ると、外はすっかり夜の帳が下りていた。



「もう、すっごーく、おいしかったねぇ! 鮑のステーキとか、旨みの爆弾がぐわって!」



月が綺麗な夜だ。階段を下りながら、華乃が興奮しきった様子で先ほど堪能したフルコースの素晴らしさを力強く語る。

きっと店では、あまりはしゃぎすぎないようずっと我慢していたのだろう。

途中で飲んだワインのせいか今のテンションのせいか、月明かりと外灯に照らされる頬は火照って見える。



「ああ、出された料理全部美味かった。手間暇かかってるとわかるものばかりだったな」

「だよねぇ~! はぁ……口の中ずっと幸せだった……」



同意した俺をニコニコ笑顔で肩越しに振り仰いだ華乃が、両頬に手をあて悩ましげなため息を吐く。

ちょうどそのとき俺よりひと足先に階段を下りきったかと思うと、今度は身体ごとこちらを振り返った。

俺はとっさに足を止める。



「ありがとう、錫也くん。今日1日全部が、今までもらったことないくらい素敵な誕生日プレゼントだったよ」



まっすぐに俺を見上げる華乃のやわらかい笑みを正面から受け止め、息を詰まらせた。

先ほど店を出る前、彼女の目を盗んでバッグからジャケットのポケットへと移動させていた“ソレ”の存在を、指先で確かめる。



「……華乃」



本当はもっと、いろいろ考えていた。

シチュエーションとか、セリフとか──けれどそんなもの、彼女の笑顔を前にすると、何もかも思うようにいかなくなる。

気の利いた雰囲気も、甘ったるい言葉も用意できない。

ただここにあるのは、俺自身の、揺るぎない気持ちだけ。
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