蜜月は始まらない
彼と別れたあと、どうにもつらくなってしまって、私は勤めていた会社を辞めた。

最先端をいく大手企業の社員食堂は、まるでホテルのビュッフェのようにオシャレで。
働く自分も自然とモチベーションが上がったし、それでいて同僚もいい人たちばかりだった。

こんなに居心地のいい職場なんて、そうそうない。けれども彼や彼と私とのことを知る人たちに会うのが、日に日にしんどくなってしまったのだ。

思いきって仕事を辞めたあとは、ひとり暮らしをしていたアパートを引き払って実家に戻った。

そして少しの間家事手伝いをしながらのんびり休養していたけれど、市役所に勤めている友達の紹介で、今いる市立図書館にパートとして採用してもらえることになった。

彼と別れたことも、前の職場を辞めたことも、後悔はしていない。

けれど、こんな私が──一度は結婚相手として選んでもらいながら、それでも結果的には他の女性の存在に負けた自分が、一流のプロアスリートである柊くんに相応しいとはどうしても思えないのだ。

柊くんは私の母経由で、この話を聞いていたはず。

それなのにお見合いを断らなかった彼は、本当に、優しい人だと思う。

……だからこそ私から、ちゃんと言わなくちゃいけない。



「ねぇ、柊くん。私じゃとても、柊くんの奥さんは務まらないと思う」



桜の木に視線を向けたまま、話し続ける。



「柊くんは、夢を叶えてプロ野球選手になった、すごい人で……平凡な私なんかじゃ、全然つり合わないよ」



言ってから、苦笑が漏れる。本当のこととはいえ、改めてこれを本人に伝えるのって、結構クるなあ。

だけど、彼の返事がない。
疑問に思って後ろにいる柊くんを振り向いた私は、なぜだかさっきまでより険しい顔をしている彼に気づいてビクリと身体をこわばらせた。
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