蜜月は始まらない
#2.同居生活初日のこと
「……花倉?」
まだ日が傾く前の、明るい放課後の教室。
かけられた声にハッとして、私は左側にある窓の向こうから視線を外した。
顔を正面に戻せば、机を挟んだ目の前にいる柊くんがきょとんと不思議そうな表情でこちらを見つめている。
日焼けしたその顔は驚くほど整っていて、ドギマギした私は机に広げられた日誌を覗き込むようにさりげなく目を逸らした。
「ご、ごめんね、よそ見して」
「いや、別にいいけど。何かあったのか?」
シャープペンシルを持つ右手をさらさらと淀みなく動かしながら、柊くんが尋ねる。
彼が書いているのは、日直の仕事のひとつである学級日誌だ。
今日は私たちが日直の担当で、さっきまで担任から命じられた雑用をふたりで片付けていた。
そして現在、他に誰もいない教室でひとつの机を挟み、日誌を仕上げている真っ最中である。
男子にしては綺麗な字で、ちゃくちゃくとページ内が埋まっていく。
今日は暑かったからか、柊くんは学ランを脱いで白いワイシャツの袖をまくっていた。
その袖口から伸びる筋肉質な腕にもドキドキしてしまいつつ、口を開く。
「えっと……桜、散っちゃったなーって思って」
答えてから、また窓の外へと目を向けた。
今度は柊くんも手を止め、同じように私の視線を追う。
「ああ……たしかに、もう全体的に緑っぽいな」
「この教室、桜が良く見えてたから。なんか、最近窓の外見るの癖になっちゃって」
「花倉、桜好きなのか」
高校生にしては落ち着いた声音と話し方の彼が、穏やかに言う。
私は葉桜になった木を眺めたまま、無意識に頬を緩めうなずいた。
「うん、好き。特に、青空の下で満開なのがいいなあ。見てると優しい気持ちになって、元気が出るから」
言ってしまってから我に返り、慌てて口をつぐんだ。
なんか、急に語っちゃって恥ずかしい。
そう考えておそるおそる柊くんの反応を確認すれば、彼は予想外に柔らかな笑みを浮かべて未だ窓の外に目を向けていた。