蜜月は始まらない
それは、“籍を入れるまでは1年待って欲しい”ということ。

お見合いを受けた時点で、たぶんこの要望は多少非常識なものだろう。
それは百も承知の上で、私は覚悟を持って願い出た。

そもそも結婚を前提としたお見合いとはいえ、自分と柊くんとでは生活スタイルが違いすぎる。いきなり入籍を済ませる前にそれぞれ自分のことを相手に知ってもらう期間を設けるのは、お互いのためにもいいんじゃないか。

そんなもっともらしいことをポツポツと語れば、意外にも母たちはあっさりとこの要望を受け入れた。

柊くんも少し考えるようなそぶりを見せたものの、『わかった』とうなずく。

だけどどうにも“同じ家で一緒に暮らし始める”というステップは決定事項のようで、ひっくり返すことはできなかった。

まあ、このお見合いはもとより柊くんの健康面でのサポートをしてくれる人材を探す目的が大きかったみたいだから……彼としても彼のお母さんとしても、そこは譲れないところだったのだろう。

そんなわけで、今日から暫定・旦那さまとひとつ屋根の下の生活をスタートさせるとはいえ、いまだ私は“花倉華乃”のままでいる。



「……よしっ、買い物行こう!」



自分を奮い立たせるように声を出し、焦げ茶色のダイニングチェアから立ち上がる。

幸い、スーパーなら駅からこのマンションまで歩いている途中に見かけた。あの大型チェーンストアなら、用は足りるはずだ。

冷蔵庫の中身と調味料をチェックし、頭の中で献立を考えながらスマホのメモ帳機能に買う物リストを入力していく。

私は──……いつまで、柊くんのそばにいられるだろうか。

きっと、この同居生活はそう長くは続かない。少し経てば、柊くんも気づくはずだ。

本来、私たちは生きる世界が違う。彼の隣に立つ女性は、自分よりもっともっと相応しい人がいる。

だからこそ、入籍を先延ばしにしてもらえるように願い出たのだから。

パンプスを履いて玄関を出る間際、これから自分が暮らすことになる家の中を一度振り返る。

まるで存在を主張するように胸の奥で痛む感情には、気づかないフリをした。
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