蜜月は始まらない
食器を準備したりテーブルの上を拭いたり、ソワソワと落ち着かないまま彼の帰りを待つ。

まもなく玄関から鍵の開く音がして、私はドキリと心臓をはねさせた。



「おかえりなさい!」



弾むように言いながら廊下に出る。

ちょうど車のキーを横にあるシューズボックスの上に置き、前を向いた柊くんと目が合った。

細身の黒パンツにグレーのインナー、ダウンジャケットを羽織った彼もまた、この状況に慣れないらしい。
一瞬の間のあと、ぎこちなくうなずいて「ただいま」と返してくれる。

……うわあ。

顔が熱を持つのを自覚する。
これからは当たり前になるこのやり取りも恥ずかしいし、引っ越しの打ち合わせのため前回顔を合わせてから約3週間ぶりに会う柊くんはやはり今日もかっこよくて、直視できない。

だけど他にも、今私が無駄に照れてしまっているのは──よりにもよって今朝、昔の夢を見てしまったというのもきっと原因のひとつだ。

17歳だった当時、柊くんに恋をした放課後の夢。
通り過ぎた月日の分美化された思い出は、キラキラに輝いて眩しいほどだった。

スニーカーを脱ぐ彼の邪魔にならないよう1歩後ろに下がり、つっかえそうになる喉からなんとか言葉をひねり出す。



「試合、勝ったね。おめでとう! ごはん、すぐできるよ。あ、でも外寒かったよね。お風呂ももう沸かしてあるけど、どうする?」



緊張したまま視線を合わせ、早口でひと息にまくしたてた。

廊下に立つ柊くんが私を見下ろして、不意を突かれたようにまばたきをする。

けれどすぐにふっと、その目もとをやわらかく緩めた。
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