名取くん、気付いてないんですか?
息絶え絶えながら家に帰ると、靴を投げっぱなし、ランドセルを放り出した。
な、ななな何動揺してんだよ! あいつだって声を出すくらいはできるに決まってるだろ! 初めて聞くからってあの反応はないわ俺!
でも、八雲はうるさい俺に見向きもしなかった。それが俺のいらつきを引き出していることもしらずに。
ああくそ、やっぱあいつムカつく! どうにも、人を馬鹿にしているようにしか見えない。一匹狼気取って、怖いものはないとでも言いたいのか。
そして、そんなあいつを意識している俺にもいらつく。興味がないのと嫌いなのはまるで意識の仕方が違うみたいだった。だから……八雲は、俺にこれっぽっちも興味がないのだろう。
「……意味わかんねぇ」
どうしてか、その事実には苛立たなかった。なんというか、悔しい、とかその辺の感情。悲しい、と一瞬横切ったが、全力で否定させてもらう。
だいたい、接点を作ったのは俺からだ。俺が意味もなく話しかけるから苛立つ結果になったんだよな。あっちは気まぐれで仕方なく返答しただけで——はい、俺が悪いんですね。
向こうはこっちに興味なんてないんだし、俺から何もしなければ今までの関係に戻ることができるだろう。今日の俺は変だった、忘れて明日から日常を再開しよう。
親に怒られるのは困るので引き返して靴をそろえ、ずるずるとランドセルを引きずって二階の自分の部屋へ持って行った。
机の上にランドセルは置き、その前から飾ってあった忍者村での手裏剣を手に取る。ベッドへダイブして、スプリングの余韻を背中に感じながら眺め……。
「忍者には……興味あるのか」
なんと俺は八雲葵に、興味を持ってしまったようだった。
※ ※ ※
八雲葵はいつも朝早くに学校へ来る。
クラスの盗み聞きからの情報だ。早めに学校へ行くという女子二人が「来たら八雲さんだけひとりで席に座っててちょっと怖い」等の話をしているので知った。
そんなわけで、その女子たちより早く学校に着くことに決めた。俺は興味のあるやつ相手にちらちらと気にしながらも何もしない友人のようなヘタレじゃない。
興味、といっても少し確認するだけだ。八雲の忍者愛がどれほどのものかを。忍者村に行くくらいだし、一般人よりかは上だと思うんだけど。まぁ俺と比べてしまえばそんなの米粒程度だとはわかりきっている。
……あいつと話すには二人きりでなければならない。こそこそするのは苦手だが、こればかりは仕方ない。俺はあいつと仲良くもなんともないのだから、いきなりクラスメートの前で話しかけても皆に不思議がられてしまうだろう。それ以上のことにもなるかもしれない。
——周りからの評価がさがるのは、あまり喜べることではないから。
結局俺も周りと変わらない普通の人間で、自分より評価が低いやつは見下してしまうのだ。偽善者になんて絶対にならないし、なれない。
「———」
息が、詰まる。
昇降口が続くガラス製の扉の前に立てば、そこから覗くのはなんてことはない、靴を履き替える少女の姿。やはりこちらには見向きもしないが、ただ靴を履く動作にさえも美しさを感じた。
いわゆる、見とれた、というやつだ。そうだ、あいつは見た目だけは良いんだった。こんなことで見とれてしまうとは思っていなかったが……いや、そんなことはどうでもいい。わざわざ早起きした目的を忘れるな。
俺たち以外には誰もないないことを確認して。
「お、おい、八雲!」
先に進もうと背を向けていた八雲が振り返る。
まっすぐと伸ばされた背筋。真っ黒な瞳は相変わらず何を考えているのかわからないし、知ったことではないが、話を聞く気ではあるのだろう。俺の次の言葉を、じっと待ってくれている。
だから、だから俺は……、言わないと……。
「——お、おは、よう」
頭にタライがぶつかったような衝撃が走る。結局俺もヘタレだった。
言いたいことも伝えられずに、なに普通に交流を図ろうとしてるんだよ。ご都合主義の漫画とかにある、仲良くなる基本は挨拶! とかじゃねぇよ。そんなに簡単なことじゃねぇ。こっちは仲良くなる気なんてこれっぽっちもありませんから。
ていうか今日は無視の日かよ八雲。そうにしては睨んだり勝手に歩き出したりはしないみたいだ。どっちかっていうと、俺の品定めをしてるって感じか。この挨拶は善意なのか悪意なのか……まぁどっちでもないけどな。
どちらもアクションを起こさないなら当然やってくる沈黙。俺はあの女子二人が来ないかヒヤヒヤしている。なぁ、頼むから、もういっそ完全に無視して歩き出してもいいから、なんかしてくれ。
今の八雲はまさにフリーズしてしまったゲーム画面。しかもBGMは鳴り続けて期待させる厄介なやつ。かすかに呼吸音は聞こえるから、いつそこからあの鈴声が吐き出されるのか神経を尖らせて気が抜けない。
「……、……っ」
何か言いそうで、言わない。もどかしいったらない。正直怒鳴りつけて、今考えていることを洗いざらい吐いてほしいものだ。人を待たせている、という自覚が足りない。
「あー、もー、いきなり挨拶なんかして悪かったよ。で、なんか言いたいことある? ないんだったらいつもみたく睨めよな……」
もしかして、急だったから混乱させたのかもしれない。そう考える自分の良い人具合にはため息を吐いて、しびれを切らした俺は頭を強くかいた。
瞬間わかりやすく歪む八雲の顔。なんだ、そんな顔もできるのか。してやったり、だ。
じゃない。なに敵に勝った気になってるんだよ。どちらかといえばこいつは違う世界線の主役級だろう。……待て、俺こいつの顔だけは大好きみたいだな。
どうでもいことを考えて気を紛らわすが、そろそろ時間がまずい。外から聞こえる音ひとつにも敏感に反応してしまう。あの女子たちじゃなくても、他のクラスから朝早いやつがいつやってくるかわからない。
もう、こちらから進んでしまおうか。きっと彼女の頭の中では何か考えがあるようには思えるが、態度にも口にも出さないのなら何も伝わらないのだから。
仕方ない、とため息を吐き、足を前に出した。ピク、と肩を揺らして俺を見つめる八雲。
「はぁ、もういいや」
それは、『せっかく勇気を出してやったのに』とでも捉えられたかもしれない。間違ってはいない。間違ってはいないが、それだけではないような気がした。
たったひとつの挨拶で、何かが変わるとしたら。
例えば俺の立場。例えば八雲の立場。例えば俺の評価。例えば八雲の評価。例えば友人からの信頼——色々あるが、どれも俺が悪くなるか良くなるかのどちらかだ。
どちらでもよかった。ただ、八雲が何かを変えるきっかけになれたらと。背中を押すことができたら。そんなことを考えていたのには、違いないと思う。忍者愛の確認なんて、どうせ建前なのだから。
八雲の横を通り過ぎる。動く気配すらない彼女には呆れて、その背から離れた。
彼女が親に叱られた子どものようになっているのはきっと俺のせい。俺が混乱させた。あいつは何が正解なのかわかっていないから、下手に口には出せないのだろう。
知っていた。感づいていた。こういうことには妙に敏感で、だからこそ俺もどうするべきなのかわかってやれない。
「…………………お、は、よう」
俺が無理矢理言わせたように感じて、彼女の勇気に耳を塞いで何も聞こえなかったふりをした。