もう何も失うことのない、彼らの日常。
1.二人の馴れ初め(1)
僕が尊敬している作家のサイン会へ来たけれど、最後尾からではその姿を見ることが出来なかった。改めて、名瀬雪菜にはこんなにも多くのファンがいるのだということを実感する。
正直、もう夢も目標も見失ってしまったから、サイン会に足を運ぶのは躊躇われた。先生に伝えたかったことは、今は伝える必要のないことだから。
行くか行かないか、自分の中での問答を前日まで続け、それに疲れた頃、ふと本棚の中に入っている先生の第一作目を手に取った。
僕はそれを徹夜で読みふけり、そして泣いた。もう何度も読み返したというのに、僕はまた泣いてしまった。
その時に、サイン会へ行こうという決心は固まった。もう夢も目標もないけれど、先生の小説が好きな気持ちだけは本物だと、自分の中で確信したから。
だから、寝不足の体をなんとか奮い立たせ、駅前ショッピングモール五階にある本屋へと足を運んでいる。
いつもより早く鼓動する心臓の音を聞きながら、僕はカバンから先生の新刊を取り出す。それは、今日あらためて購入したものだ。もう発売日に購入したけれど、二冊目を買うことに躊躇いはなかった。
その新刊をめくって、僕は内容を流し見する。一生かかっても、こんな小説は書けないなと心の中で自虐する。
僕の才能の無さには、心底呆れてしまった。呆れ果てた末に、僕は夢を諦めたのだから本当にどうしようもない。
そういう風に一人で勝手に気分を沈めていると、いつの間にか僕の後ろに十人ほど人が並んでいた。前に並んでいる人との間隔が空いてしまっていたため、僕は慌てて列を詰める。
それから僕は、何気なく後ろを振り返った。列に並ぶ人は、どんどん増えてきている。そんな中、僕は一人の女性が気にかかり、視線が固定された。
彼女は先生の新刊を大事そうに持ちながら、壁に寄りかかって額に手を当てていた。マスクをしていて、きっと風邪を引いているのだろう。
僕はなんとなく、その女性が気になった。大丈夫なのだろうか。立っているのも、辛そうに見える。
「あの」
ふと、後ろに並んでいた気の強そうな女性に声をかけられる。僕の意識は一旦、そちらへと向けられた。
「列、詰めてくれませんか?」
「あ、すみません……」
また、前の人と間隔が空いてしまっていた。僕は一瞬迷って、並んでいた列を抜け出る。その際声をかけてきた女性に怪訝な表情を浮かべられたけれど、気にしないことにした。
僕は、マスクをした女性のことを本棚の陰からうかがう。他に彼女に気付いた人が、声をかけるかもしれないから。
だけど待ってみても、彼女に声をかける人はいない。僕が行っても大したことは出来ないが、せめて下げているミニバッグを持ってあげるぐらいは出来ると思って、勇気を出して彼女へと近付いた。
「あの、大丈夫ですか?」
マスクをしているから、彼女の表情はわからなかった。ただ、苦しそうにしているということは、雰囲気でなんとなくだけど伝わってきた。
「すみません……少し、頭が痛くて……」
少しじゃないだろうと、僕は心の中でツッコミを入れてしまう。気が強いのか、それとも嘘が下手なのか。会って初めての僕には、どちらかなのかわからなかった。
「バッグ、持ちますよ」
「そんな、申し訳ないです……」
「気にしないでください。困ってる人を、放っておけないので」
そうは言いつつも、自分以外の人間が彼女に手を差し伸べていたとすれば、僕は彼女へ近付かなかっただろう。そういう事なかれ主義的な自分の性格と、困っている人を助けない周りに対して、僕は少しだけ憤りを感じていた。
とても、自分の行動と考えは矛盾している。そう思って、僕はまた自虐する。
彼女はとても申し訳なさそうに「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます……」と言い、僕にミニバッグを任せてくれた。
「そちらの名瀬先生の新刊も、持ちましょうか?」
大事そうに持っている先生の本を、僕は指差す。すると彼女は、苦しそうにしていたのが嘘だったかのように、突然元気な声を出した。
「名瀬先生のファンなんですか?!」
僕は彼女の変わりように驚いて、思わず半歩後ずさってしまう。
「あ、はい……そうですけど……」
「実は私も、すっごくファンなんです!もう一作目が出た時から、ずっと追いかけ続けてて!」
「あ、えっと、そうなんですか?」
「一番泣けるのはもちろん一作目なんですけど、私は二作目も面白いと思うんですよ! 登場人物の秘密を知った時は、そうきたか! って驚きましたし!」
最初は、やっぱりちょっと驚いた。だけど、こんなにも名瀬先生のことが好きなファンに巡り会えて、僕の心は知らず知らずのうちに高揚していた、
おそらく、この書店にいる誰よりも、彼女は名瀬先生のことが好きなのだろう。そういうことが、直感的に理解できた。
「僕も、二作目はすごい好きですよ。三作目も、伏線とかいろいろ投げっぱなしだって批判されてますけど、ちゃんと読めば主人公やヒロインたちのことがよくわかるように出来てますし」
「ですよね! あの三作目を批判するのは、絶対飛ばし飛ばし見てた人です!」
僕にしては珍しく、自分の意見を饒舌に語ってしまっていた。それを、彼女は笑顔で受け止めてくれる。だから、また僕は感じたままのことを、彼女へ伝えた。
そういった本音のやり取りをして、僕は純粋に楽しいなと思った。こんな風に、彼女と話をするのが。
だから、彼女の体調が芳しくないのを、僕はすっかりと忘れてしまっていた。彼女はまた、思い出したかのように額に手を当てて、辛そうに眉を寄せる。
そして先ほどよりも悪化してしまったのか、僕の方へふらりと倒れこんできた。慌てて彼女のことを抱きとめると、甘い柑橘系の匂いが僕の鼻孔を通り抜ける。
それに、大きく心が揺り動かされた。
「あの、大丈夫ですか……?」
「すみません……少し、はしゃいじゃって……」
「六階のカフェで休憩しましょう。サイン会が終わるまで、まだ時間はありますし」
普段ならそんな提案は絶対しなかっただろうけれど、なぜかすんなりと言葉にできた。だから、自分で自分の言動に驚く。彼女が頷いてくれたのを見て、僕は安心した。
正直、もう夢も目標も見失ってしまったから、サイン会に足を運ぶのは躊躇われた。先生に伝えたかったことは、今は伝える必要のないことだから。
行くか行かないか、自分の中での問答を前日まで続け、それに疲れた頃、ふと本棚の中に入っている先生の第一作目を手に取った。
僕はそれを徹夜で読みふけり、そして泣いた。もう何度も読み返したというのに、僕はまた泣いてしまった。
その時に、サイン会へ行こうという決心は固まった。もう夢も目標もないけれど、先生の小説が好きな気持ちだけは本物だと、自分の中で確信したから。
だから、寝不足の体をなんとか奮い立たせ、駅前ショッピングモール五階にある本屋へと足を運んでいる。
いつもより早く鼓動する心臓の音を聞きながら、僕はカバンから先生の新刊を取り出す。それは、今日あらためて購入したものだ。もう発売日に購入したけれど、二冊目を買うことに躊躇いはなかった。
その新刊をめくって、僕は内容を流し見する。一生かかっても、こんな小説は書けないなと心の中で自虐する。
僕の才能の無さには、心底呆れてしまった。呆れ果てた末に、僕は夢を諦めたのだから本当にどうしようもない。
そういう風に一人で勝手に気分を沈めていると、いつの間にか僕の後ろに十人ほど人が並んでいた。前に並んでいる人との間隔が空いてしまっていたため、僕は慌てて列を詰める。
それから僕は、何気なく後ろを振り返った。列に並ぶ人は、どんどん増えてきている。そんな中、僕は一人の女性が気にかかり、視線が固定された。
彼女は先生の新刊を大事そうに持ちながら、壁に寄りかかって額に手を当てていた。マスクをしていて、きっと風邪を引いているのだろう。
僕はなんとなく、その女性が気になった。大丈夫なのだろうか。立っているのも、辛そうに見える。
「あの」
ふと、後ろに並んでいた気の強そうな女性に声をかけられる。僕の意識は一旦、そちらへと向けられた。
「列、詰めてくれませんか?」
「あ、すみません……」
また、前の人と間隔が空いてしまっていた。僕は一瞬迷って、並んでいた列を抜け出る。その際声をかけてきた女性に怪訝な表情を浮かべられたけれど、気にしないことにした。
僕は、マスクをした女性のことを本棚の陰からうかがう。他に彼女に気付いた人が、声をかけるかもしれないから。
だけど待ってみても、彼女に声をかける人はいない。僕が行っても大したことは出来ないが、せめて下げているミニバッグを持ってあげるぐらいは出来ると思って、勇気を出して彼女へと近付いた。
「あの、大丈夫ですか?」
マスクをしているから、彼女の表情はわからなかった。ただ、苦しそうにしているということは、雰囲気でなんとなくだけど伝わってきた。
「すみません……少し、頭が痛くて……」
少しじゃないだろうと、僕は心の中でツッコミを入れてしまう。気が強いのか、それとも嘘が下手なのか。会って初めての僕には、どちらかなのかわからなかった。
「バッグ、持ちますよ」
「そんな、申し訳ないです……」
「気にしないでください。困ってる人を、放っておけないので」
そうは言いつつも、自分以外の人間が彼女に手を差し伸べていたとすれば、僕は彼女へ近付かなかっただろう。そういう事なかれ主義的な自分の性格と、困っている人を助けない周りに対して、僕は少しだけ憤りを感じていた。
とても、自分の行動と考えは矛盾している。そう思って、僕はまた自虐する。
彼女はとても申し訳なさそうに「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます……」と言い、僕にミニバッグを任せてくれた。
「そちらの名瀬先生の新刊も、持ちましょうか?」
大事そうに持っている先生の本を、僕は指差す。すると彼女は、苦しそうにしていたのが嘘だったかのように、突然元気な声を出した。
「名瀬先生のファンなんですか?!」
僕は彼女の変わりように驚いて、思わず半歩後ずさってしまう。
「あ、はい……そうですけど……」
「実は私も、すっごくファンなんです!もう一作目が出た時から、ずっと追いかけ続けてて!」
「あ、えっと、そうなんですか?」
「一番泣けるのはもちろん一作目なんですけど、私は二作目も面白いと思うんですよ! 登場人物の秘密を知った時は、そうきたか! って驚きましたし!」
最初は、やっぱりちょっと驚いた。だけど、こんなにも名瀬先生のことが好きなファンに巡り会えて、僕の心は知らず知らずのうちに高揚していた、
おそらく、この書店にいる誰よりも、彼女は名瀬先生のことが好きなのだろう。そういうことが、直感的に理解できた。
「僕も、二作目はすごい好きですよ。三作目も、伏線とかいろいろ投げっぱなしだって批判されてますけど、ちゃんと読めば主人公やヒロインたちのことがよくわかるように出来てますし」
「ですよね! あの三作目を批判するのは、絶対飛ばし飛ばし見てた人です!」
僕にしては珍しく、自分の意見を饒舌に語ってしまっていた。それを、彼女は笑顔で受け止めてくれる。だから、また僕は感じたままのことを、彼女へ伝えた。
そういった本音のやり取りをして、僕は純粋に楽しいなと思った。こんな風に、彼女と話をするのが。
だから、彼女の体調が芳しくないのを、僕はすっかりと忘れてしまっていた。彼女はまた、思い出したかのように額に手を当てて、辛そうに眉を寄せる。
そして先ほどよりも悪化してしまったのか、僕の方へふらりと倒れこんできた。慌てて彼女のことを抱きとめると、甘い柑橘系の匂いが僕の鼻孔を通り抜ける。
それに、大きく心が揺り動かされた。
「あの、大丈夫ですか……?」
「すみません……少し、はしゃいじゃって……」
「六階のカフェで休憩しましょう。サイン会が終わるまで、まだ時間はありますし」
普段ならそんな提案は絶対しなかっただろうけれど、なぜかすんなりと言葉にできた。だから、自分で自分の言動に驚く。彼女が頷いてくれたのを見て、僕は安心した。
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