もう何も失うことのない、彼らの日常。
2.二人の馴れ初め(2)
 こんな風に、女性の方とカフェに入るのは初めてだった。

 しかし、そもそもカフェに入ったことのない僕は、そのおしゃれなメニュー表を見て目を白黒させる。

「ご注文はお決まりでしょうか」

 大学生ぐらいの女店員さんに、笑顔でそう聞かれる。僕は、迷ったけれど隣の彼女のことを考え、「すみませんが、お水を一つください……」と注文した。ここに来て、水を注文する客なんて滅多にいないだろうから、少しだけ気がひける。

 それから自分のも注文しなければと思い、メニュー表をもう一度見る。早くしなければ、また後ろの人に声をかけられるから、一番見慣れたコーヒーを注文した。

 お金を払い、水とコーヒーを受け取る。周りにあまり人のいない席を選んで、僕らは腰を落ち着ける。

「体調、大丈夫ですか?」

 そう訊ねると、彼女は素直に首を振った。

「まだ、頭痛がします」
「薬とか、持ってきてないですか?」
「ここに来るときにまだ時間があったので、薬局で買ってきました」

 おそらくその薬は、ミニバッグの中に入っているのだろう。僕は彼女に、慌ててバッグを返した。

 それから彼女はバッグから、紙の袋に入った錠剤を取り出す。薬を飲むためにはマスクを外さなければいけないため、一度、マスクを顎のあたりまで下げた。

 その時、僕は初めて彼女の顔の全体像を目にする。

 第一印象から瞳が大きくて綺麗だなと思ったが、鼻は対照的に小ぶりで自己主張をしていない。落ち着いた雰囲気を醸し出しているが、どこか幼さも垣間見える。そのちぐはぐさが、いい意味で彼女の魅力だった。
 
 美人に見えて、可愛くも見える。明らかに、僕と不釣り合い。

 きっとマスクをしていなかったら、話しかけられなかった。自分との差に愕然として、今すぐにでも席を立ちたくなる。

 僕は、注文をしたコーヒーに口を付ける。そうしていなければ、彼女との間が辛かった。緊張をしていて、自分の心臓の鼓動を制御することができない。

「あの、ありがとうございます。私に気を使ってくださって」
「いえ、気にしないでください……」
「あなたが声をかけてくれて、私、嬉しかったです。そういえば、お名前はなんていうんですか?」

 そう彼女に名前を聞かれて、まだ名乗っていなかったことを思い出す。

「小鳥遊公生っていいます。えっと、あなたは?」
「私は、嬉野茉莉華っていいます」

 綺麗な名前だなと、思った。彼女にぴったりな名前だ。

「公生さんは、小説をたくさんお読みになるんですか?」

 名前で呼ばれてしまい、僕は思わず顔が熱くなる。最近の女性は、みんな相手のことを名前で呼んだりするのだろうか。

「……はい。月に五冊ほど」
「あ、私の勝ちです!私、月に十冊以上は読むんです」
「えっ、そんなに読むんですか?」
「休日はあんまり外に出ないで、本を読んでる人なんです」

 それは意外だった。嬉野さんみたいに気の良さそうで元気な人は、休日に男友達と遊びに行ってるという勝手な先入観があったから。

「私、名瀬先生の第一作目は、毎月一回は読み返すほど好きなんです。また新しい発見があって、何度読み返しても飽きないです」
「一作目もたまに読み返しますけど、僕は二作目を毎月読み返してます。二作目の方も、奥が深くて面白くないですか?」
「わかります!二作目の方は毎回、幸せとは何かについて考えさせられるんですよね!」

 また、嬉野さんが興奮し始める。どうやら本のことになると、熱くなってしまう人のようだ。

「あの、もう少し安静にした方がいいかもしれません。また、頭痛がひどくなるかもしれないので」

 そう指摘すると、嬉野さんの頬が少しだけ赤くなった。

「す、すみません。私、本のことになると熱くなっちゃって……」
「そんなに、本が好きなんですね」
「はい……昔から、本に囲まれて生活してきたので……」

 それから彼女は、僕の目をうかがうように見てきた。

「こいつ、趣味のことになるとペラペラうるせーなって思ってませんか……?」

 僕は思わず、小さく噴き出してしまう。そんなことは微塵も感じていなかったから、嬉野さんの口から飛び出した言葉が面白かった。

「全然、気にしてませんよ。むしろ、嬉野さんの話を聞いてると楽しいです」
「そう、ですか?」
「はい」

 照れているのか、嬉野さんは僕から視線をそらす。彼女はこんな表情もするのだなと、僕はそんなことをぼんやり考えていた。

 それからもたわいない会話を続け、嬉野さんの体調がよくなってきたのを見計らって、僕らはカフェを出る。その後の目的地は、もちろんサイン会の会場だ。

 もう体調がよくなったから、自然と僕らは別れるのだろうと思っていた。だけど嬉野さんは当然のように僕の隣を歩き、一緒に列に並んだ。

 並んでいる間、彼女は笑顔でいろいろな本の話を聞かせてくれる。僕の読んだことのない本は、ネタバレにならない程度に魅力を教えてくれた。

 僕は、それを聞いているのが純粋に楽しくて、いつのまにか、心の内に抱いていた劣等感は薄らいでいた。彼女と話をするのが、楽しい。不釣り合いだけれど、嬉野さんが僕を会話の相手として選んでくれている。それならば、そんな後ろ向きな気持ちを抱かなくてもいいんじゃないかと、僕はそう思い始めていた。
いつのまにか、僕らは列の先頭付近まで近付いていた。

「もう少しですね」彼女は期待に満ちた声色でそう言う。僕の心も、いつもより浮き足立っていた。

 名瀬先生に、伝えたいことがある。あなたの作品が、純粋に好きだと。あんなにも素晴らしい作品を作ってくれて、ありがとうと。

 それを伝えたくて、僕は早まる鼓動を耳の奥で聞きながら、その瞬間まで待ち続けた。

 そして、列の先頭にたどり着く。

 ようやく僕は、名瀬雪菜の正体を知った。

「先、輩……?」

 そこに座っていたのは、僕の隣の部屋に住んでいる七瀬先輩その人だった。先輩は僕を見て、安心したように表情を緩める。

 しかし、続く嬉野さんの声を聞いて、先輩の表情は急に張り詰めた。

「えっ、名瀬先生と公生くんって知り合いなの?」

 僕はその事実を知って固まってしまい、嬉野さんに言葉を返すことができない。ただ、先輩を見つめたまま、様々な感情が渦巻いていた。

 どうして隠していたのか。どうして正体がバレるようなことをしたのか。どうして、そんな表情をしているのか。

 先輩は寂しげな表情を浮かべていた。そして、その表情を隠すように、先輩は笑った。とても不恰好な、作り笑いだった。

「とうとう、バレちゃったか」
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