Sweet Healing~真摯な上司の、その唇に癒されて~

 パンを食べ終えてコーヒーの残りを飲み干した千紗子は、カップをテーブルの上そっと置く。そして両手を膝の上に置いてから、正面に座る雨宮に向かって頭を下げた。

 「昨夜から本当にお世話になりました。ありがとうございました。」

 「俺が勝手にやったことだ。礼なんか要らない。」

 頭を上げると、不満げな瞳をした雨宮と目が合う。

 「お世話になったのは事実ですから…。このお礼はまた後日、きちんとさせてください。今日はもう帰ります。」

 もう一度頭を下げてから千紗子は椅子を引いて立ち上がった。

 ソファーの足元に置いておいた鞄を手に取って、玄関へ向かおうとドアを押したその時、ドアノブを持つ千紗子の手を上から大きな手が掴んだ。
 
 千紗子の背中に熱が伝わる。後ろから香るラストノート。
 その熱と香りに包まれた昨夜の記憶が甦り、千紗子の体は一気に熱くなった。

 「あそこに戻るのか?」

 千紗子の手首を掴んだ腕と、大きな体。反対の腕が千紗子の腰に緩く巻きつく。
 気付くと、千紗子はドアと彼の体の間に閉じ込められれていた。

 離してくれる気配は無くて、掴まれた手首が火傷しそうなくらい熱い。
 
 「は、はい…」

 後ろを振り向くことも出来ずに、ドアを見つめたままそう答える。

 (私の帰る家はあそこしかないもの…)

 こんなことになってしまうまでは、裕也と暮らすマンションの部屋に帰ることが、千紗子にとっては一番の幸せだった。
 今となっては、『帰る』と言って良いのかすら分からないけれど、かと言って他に行くところもない千紗子は、あの部屋に帰るほか選択肢はないのだ。
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