Sweet Healing~真摯な上司の、その唇に癒されて~

 「帰したくない、な。」

 耳元でバリトンの声が呟く。声と共に吐き出された熱い吐息が千紗子の耳元をくすぐって、背中がゾクリと震えた。

 雨宮の腕にはほとんど力は籠められていない。
 千紗子の手首を掴んだ手も、腰に回る腕も、どちらもゆるく巻きつけてあるだけだ。逃げようと思えば簡単に抜け出せるだろう。

 けれど千紗子は雨宮の腕を振りほどくことが出来ずにいた。
 もっときつく捕まえられていたなら、反射的にその腕を振りほどいて逃げ出していたと思う。
 甘い捕縛は、まるで千紗子が嫌ならいつでも逃げられることを、教えているようだった。

 (雨宮さん……)

 このままぐずぐずと雨宮に甘えているわけにはいかない。
 自分たちは職場の上司と部下で、それ以上の関係ではないのだ。

 昨夜はあんなことになってしまったけれど、だからと言ってこれ以上彼に甘えてしまうのは良くない気がした。
 自分に好意を寄せているというなら、尚更だ。

 千紗子がそんなふうに考えていると、千紗子の手首を掴んでいた手が腰に回された。
 とうとう千紗子は完全に後ろから抱きしめられて、身動きを封じられてしまった。

 「あ、雨宮さん…放」

 「あんな男のいる家に、君を帰したくない。」

 「放して」と言いかけた千紗子の耳に切なげな声が届く。

 「あんなふうに傷ついた千紗子を、俺はもう見たくない。」

 「雨宮さん…」
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