三途の川のお茶屋さん
けれどすぐに、同胞の神であればそれと察する事も出来ると思い直す。
これまでに例外は、幸子だけだ。幸子が女神と言われれば納得もした。けれど言われねば、それと分からずにいた。
それというのも幸子の気は、とても不思議なのだ。
奥深くに直視するのが躊躇われるほどの煌きは確かにある。それは初対面でも、驚きをもって感じた。けれど幸子の表層に巡るのは、確かに人のそれ。
奥深くの煌きが神性による物なのか、幸子の人としての徳の高さによる物なのか、判断が難しかった。
神威様に女神だと言われれば、ストンと胸に落ちた。
何故、女神が人の世に紛れたかは知れないが、誤って輪廻に落ちてしまった可能性はゼロではない。事実、幸子は人の世にあったのだから。
しかし懸人という男にも、どこかそれに通じる物がないか……?