千一夜物語-森羅万象、あなたに捧ぐ物語-
部屋の前に着くと、黎は静かに声をかけた。


「娘さん、少し話をしたいんだが…いいだろうか」


「…」


返事はなく、脇に控えていた桂は、襖に手をあてて目を閉じると、部屋の中の気を探った。

この気を読む能力に長けている桂は、部屋の中で娘もまたこちらの様子を窺っていることを知ると、首を振った。


「警戒されています」


「それはそうだろうな。もしかしたら殺しに来たのかもと思ているかもしれない」


ふたりで廊下でひそひそ話をしていると――中で娘が襖の傍まで来た気配がして、桂が唇に人差し指をあてて沈黙を作った。


「……誰?」


――その声を聞いた途端――桂は全身泡立つのを感じて髪の毛まで総毛立った。

その様を見た黎が桂の肩を掴んで目を見開くと、桂は片手で口元を覆ってよろめいた。


「桂…?」


「父様…俺…この声を知っている気がします」


「なんだと…?」


「…父様、ここは俺に任せてもらえないでしょうか」


「だが…」


「大丈夫。だからお願いします」


普段我が儘を言うことのない桂にそう言われると断れない黎は、静かに頷いてその場を去った。

気配が去るまで待った桂は、大きく深呼吸をして襖越しにすぐそこに立っている娘に呼びかけた。


「…入ってもいいかな」


「……あなたは…誰…なの…?私…その声…知って……いいえ、知るわけないわ、私ずっとここに居たのだから…。ああまた私…おかしくなってる…」


「君はおかしくないよ。実は僕も以前君と同じ感じになっていて苦しんだから。…少し話をしない?中に入ってもいい?」


「…」


返事はなかったが、固かった雰囲気が和らいだのを感じた桂は――襖に手をかけて、そっと開いた。


心臓の高鳴りを抑えきれない――

はじめて味わう緊張感だった。
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