千一夜物語-森羅万象、あなたに捧ぐ物語-
娘――明日香は、独り暮らしだった。

早くして疫病で両親を失い、それからは農業、牧畜などを手伝って暮らしているとのことで、日々の暮らしは貧しく、家も隙間風が吹いていて、様々な話を親身になってしてくれた。

母が人だと打ち明けたことでぐっと心を開いてくれたのか、様々な話を聞かせてくれたものの――桂は可憐な娘に見惚れていて、実はあまり話を聞いていなかった。

…美しい妖なら、腐るほど見てきていた。

けれど人の女に心惹かれていると自覚していた桂は、父もまた人だった母を愛したあまりにとてつもなく苦しんでいることを知っているため、胸が痛くなって俯いた。


「どうしたんですか?どこか痛いの?」


「いや…どこも痛くはないんだ。…あの、よければしばらくここに滞在させてもらえないかな。決して悪さはしないし、君にも悪さはしない。それは誓って約束するから」


頬を赤らめた明日香は、迷いながらも承諾してくれた。

それからというものの桂は明日香の仕事を手伝い、沢山話をして、誓いを破らず、それでも惹かれる心を止めることはできなかった。

…明日香がもしかたら自分を好いてくれているかもしれないと思わないこともなかったが、期待はしなかった。

どう足掻いても、幸せな結末を迎えることはできなかったから。

そんなある日――

人は夜に寝るため桂もそれに倣って寝ていると――隣に寝ていた明日香が手を握ってきた。

どきっとして硬直していると、明日香は背中にぴっとりくっついてきて、恥ずかし気に呟いた。


「桂…私のこと…嫌い?」


真名しか教えていなかったけれど、心を込めて呼ばれると、身体の奥底からこみ上げてくる喜びに耐え切れず、寝返りを打って恥ずかしさに震えている明日香を抱きしめた。


「もう後には引けなくなるよ。それでも…いい?」


「うん…私…桂のこと、好き」


「俺もだよ…。明日香、俺と夫婦になろう」


「ほ、本当に…?」


――その夜桂ははじめて明日香を抱き、本当の喜びを知った。

求めていたのはこれだ、と。

もうあの家には戻らない、と決めた。
< 194 / 201 >

この作品をシェア

pagetop