千一夜物語-森羅万象、あなたに捧ぐ物語-
狗神姿になった狼の背中に乗った美月は、行きの時は緊張して乗り心地を味わえなかったものの、帰りは少し余裕ができて、もふもふの狼の長い毛を優しい手つきで撫でて癒されていた。


「もっと撫でて」


「俺が後から嫌と言うほど撫でてやる」


美月に要求した狼の耳をぎゅっと引っ張って悲鳴を上げさせた良夜は、境内の前で美月を下ろすとちらりと泉を見た。


「無理強いはしないと約束するから、ちょっと話をさせろ」


「困ります。あの子は全てを怖がっているのです」


「怖くしなければいいだけの話だ。お前は先に朝餉の準備をしていてくれ」


…まるで亭主のような口ぶりに反論しかけたが――あの泉の中でずっと身を潜めていることについては憂慮していた。

自分以外には心を開こうとしなかったが――獣に妙に懐かれる良夜ならば、もしかしたら或いは――


「…分かりました。くれぐれも無理強いは止めて下さい」


「ん」


何度も振り返りながら美月がその場を去ると、良夜は日なたで日向ぼっこを始めた狼から離れて泉の前の庭石にどっかり腰を下ろした。


「さて、お前が何故ここに住み着いたのか…そこから訊こうか」


…反応はない。

だが良夜はそれを気にすることなく温かい日差しを浴びながら呑気に欠伸をして目を閉じていた。

すると泉の中央で大きな波紋が広がり、それが徐々に徐々に良夜の方へと近付いていき、良夜が目を開けるとそこから動かなくなった。


「なんだ、そっちから見えているし聞こえているのか。お前、腹は空かないのか?後で何か持ってきてやる」


そろそろ朝餉ができる頃だ。

何か見繕って後で持ってきてやろうと思いつつ背を向けて参道の方へ向かった良夜の後姿を、泉から目の辺りまで顔を出して見ていた者が居た。


「なんだあいつ…変な奴…」


――後にこの出会いが、良夜と美月の中を劇的に深めるものとなるなど、この時の良夜は知る由もなかった。
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