千一夜物語-森羅万象、あなたに捧ぐ物語-
観音扉の前に行き着いた。

だが手は凍ったかのように動かず、ただただ立ち尽くしていた。


ここを開けてしまえば、もう日常に戻れないような何かがある。

それが怖くて躊躇していると――中から声がかかった。


「…誰ですか?」


ぞくり。


背筋からぞわぞわと何かが競り上がってきて、身を震わせた良夜はくっと唇を噛み締めて、ぎゅうっと目を閉じた。


待っている者が居る気がする。

ずっとずっと待っていた者が。


「…入るぞ」


そう声をかけたが、中に居る者からの返事はない。


意を決した良夜は、扉を開いた。

ぎい、と重苦しい音を立てて開かれた扉の奥に――背を向けて祭壇を見つめている髪の長い女の姿が在った。


良夜は、ただただその細く美しい背中を見つめた。

…今まで会ってきた女とは明らかに違う既視感を覚えた。

ぐらりと眩暈がしてぶるぶる首を振ると――女が振り返った。


そのきっと吊った強い眼差し――

真っ白な神官衣に身を包み、驚いたように少し唇を開いているその妖艶さ――知っている。


「…神羅……」


口から突いて出た名は、知らない名だった。

女は両手で口を覆って、腰を浮かした。


明らかに逃げようとしている動作に良夜は足を踏み込んで、また呟いた。


「…見つけたかもしれない」


「……え…?」


「お前の名は…?」


女は相変わらず驚いた表情のまま、後退って祭壇に奉げられた供物を落とした。


「さきにお主が名乗りなさい。一体…何者なのですか…?」


――黎明だ。


また知らない名を言いかけて、今度は良夜が後退った。


「名を名乗れ。お前は…一体何者だ…!?」


知りたい。

待ち続けていた者の名を。
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