千一夜物語-森羅万象、あなたに捧ぐ物語-
女の長い髪は黒くてとても美しく、吊った目も真っ赤な唇もとても美しく、良夜はぐらりと眩暈がしながらも、一歩一歩近付いていった。

だが女は本能からなのか後退り、祭壇にぶつかって供物が音を立てて床に転がった。


「逃げるな。頼む…逃げないでくれ」


「お主は…誰…」


「俺は……良夜だ。この町の…次期当主になる。百鬼夜行を統べる者として…」


「百鬼…夜行……」


――女はそう呟いて、何故か右手を左胸にあてた。

良夜は何故だか分からなかったが、また一歩女に近付いて、左胸をすうっと指した。


「…そこに何かあるんだろう?何がある?」


「っ!お主には関係のないことです!用がないなら立ち去って下さい。私は祈りを捧げなければ」


「俺は名乗ったぞ。お前も名乗れ」


これ以上警戒されないようにするため、良夜は少し離れた所で座っててこでも動かない姿勢を見せた。

女は散らばった供物をゆっくり拾い上げていって祭壇に並べると、ぼそりと呟いた。


「美月(みつき)と…申します」


「美月…お前も月の名なのか」


「確か…良夜とは月の美しい夜、という意味でしたね。道理で…」


どうりで美しい、と言いかけた美月は、その場にぺたんと座って本来挨拶に行かなければいけない鬼頭家の長男に頭を下げた。


「再三顔を出しに来なさいと言われていたのですが、私も着任し立てて色々やらなければならないことがありましたので」


「そうか。親父にはそう言っておく。…で、左胸には何がある?」


「お主には関係のないこと。ご当主には近々顔を出しに行きますとお伝え下さい。さあ、もう行って下さい」


「いやだ。少し話をしよう」


…強引な男だ。

目に強い力が瞬き、心の奥底まで見透かされそうな気分になった美月は、ため息をついて目を伏せた。


「何の話をすれば?」


「そうだな、生い立ちからにしよう」


「…それは長い話になりそうなのでいやです」


「長い話になっていい。お前も足を崩して話せ。ああそうだ、狼に酒を運ばせよう」


「ちょ…長居は困ります!」


「ちょっと待ってろ」


聞く耳持たず。


だがこんなやりとりが懐かしい気がして、美月は肩越しに祭壇を振り返って笑みを見られないようにした。
< 8 / 201 >

この作品をシェア

pagetop