千一夜物語-森羅万象、あなたに捧ぐ物語-
良夜の言った通り、この家の風呂は格別だった。

湯船はとにかく大きくて、故郷では水は貴重品だったため今でも節約しなければと思ってしまうが、湯船から溢れるほどの湯量だったため、湯船に飛び込んでひとしきりはしゃいでしまった。

結果上せそうになってふらふらしながら与えられた客間に戻ると、まだ良夜が訪ねてきてないことに首を傾げた。

良夜の部屋が目と鼻の先にあることは分かっていたのだが…こんな近くの部屋を与えておいて虎視眈々と襲おうとしているのではと考えたが――

しばらくの間は団扇で顔を扇いで待っていたが、何かあったのではと不安になってそっと部屋を出ると、良夜の部屋の前で行ったり来たりを繰り返した。


「入っていいのかしら…そもそも居ないかもしれないし…」


こちらは浴衣一枚の姿だし、もしかしたら雨竜に会いに行ったのかもしれないと思案した後とりあえずぽすぽすと襖を叩いた。


「あの…良夜様?いらっしゃいますか?」


「…ああ」


その声がなんだか沈んでいるように聞こえていたため、美月は襖を少しだけ開けて中を覗き込んだ。

灯りはついていたが、良夜は壁際に寝転んでこちらに背を向けていた。

緩みかけた胸元を正して良夜の傍に正座した美月は、意外とがっちりしている肩を揺すって顔を覗き込んだ。


「どうしました?具合でも…」


「どこも悪くない。お前こそそんな薄着でどうした」


「お主が後で会いに行くと言っておきながら来ないからですよ。…いえ別に来なくても良かったのですが一応約束をしていたので何かあったのではと…」


言い訳がましくなってしまって内心焦りながら肩から手を離すと――その手をそっと握られてどきっとした。


「自分自身と向き合っていた」


「それは良いことです。それで答えは出たのですか?」


「出なかった。だが自分のしたいようにするという結論は変わらない」


「つ…っ」


人差し指をがりっと齧られて僅かに出血すると、良夜がその血を舌で掬い取るように舐め取ってきて背筋がぞわりとした。


美月とて、噛みつかれることの意味を知っている。


「美月…俺に誕生日の贈り物をひとつくれ」


「な…何も持って来ていませんが…」


「お前の唇でいい」


目と目が合った。

良夜のやや切れ長の目にたゆたう青白い炎に魅入られて、動けなかった。
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