君に心を奪われて
あれから数日経った頃。俺はまた吐き気がしてトイレに向かう。
「翼!」
花菜は隣で背中を撫でてくれる。そんな優しさが少しの救いだった。
口が焼けるように痛い。口内炎だ。きっと、抗がん剤の副作用だろう。吐き気も同じだろう。
吐く度に涙が出てくる。花菜ももうすぐ子供が産まれるというのに申し訳無い。
「花菜……」
「翼、大丈夫だよ。元気出そう……」
花菜はそう言って目を伏せる。責任の無い大丈夫も意味が無いのだ。もう俺は死ぬと決まっているのだ。
花菜が俺の頭を撫でると目を見開いていた。俺は首を傾げると、花菜は手にあった物を見せてきた。俺の髪の毛だった。
「翼……」
「大丈夫。俺は耐えるから……」
花菜は俺の言葉に小さく微笑んで頷いた。そんな悲しそうな顔をする花菜も可愛いが、俺は笑ってくれた方が元気になれる。
「だから、笑って……」
俺がそう言うと、花菜は元気良く頷いて満面の笑みを見せてくれた。あの頃みたいに作り笑いでも構わない。君の眩しい笑顔を見せてほしい。
「花菜、だい……」
いつもみたい大好きと言おうとしたら吐き気がしてトイレに向かった。花菜は俺の隣で背中を撫でてくれるが、花菜も顔色が悪かったはずだ。申し訳無い。
「翼、水飲もうか」
「うん……」
本当は口内炎で飲む気にならないが、医者に飲んでほしいと言われて飲むしかないのだ。
俺はコップに入った水を飲み込んだ。どれも不味く感じる。
「翼、落ち着いた?」
花菜が心配そうな顔で見つめてきた。俺が手を伸ばすと、花菜は俺に近付いてきた。そして、唇を重ねた。もうこんなことも出来なくなると思うと怖くなった。
「今度、翼のためにカッコいい帽子を買ってくるよ」
「ありがとう……」
今日も君が愛しい。君と笑い合うことが出来なくなるのは寂しい。仕方ないのだ。俺はそういう運命になってしまったのだ。
花菜を全力の笑顔で見送った後、俺はまたトイレで吐いていた。
ああ、まだ死にたくない。やっぱり君が好き。君と離れたくない。君を残して死にたくない。子供の顔を見たい。
ヤダ……死にたくない……。
俺はトイレの目の前で涙を流していた。ただ君と顔も見ていない子供を想いながら。