転生少女が落ちたのは、意地悪王子の腕の中~不器用な溺愛は何よりも甘いのです~
「ああ、お前は記憶喪失だったか?はっ、そんな者がいるものか。あれは皮肉のつもりだったんだ。
本物はお前が初めてだな」

「!」

逃げる間もなく、がっ、と強い力で顎を掴まれる。顔が急激に近づく。

「いい加減わかっただろう?俺はお前が欲しい。花嫁になりたくないというのなら子だけでも産め。それだけだ」

私は至近距離でこちらを覗き込むアガットの瞳をじっと見詰め返した。湿った吐息が唇をなぞる。

それでも身動ぎ一つしない私に、やがて戸惑うように揺れる赤。

「このまま……口づけるぞ」

「どうぞ」

「その先もっ、簡単なことだ!」

「好きにすればいいんじゃないですか?本気になられたら女の私には抗えません」

は、と苦しそうに息をする音が耳を掠めた。王子が私の手首を握り持ち上げる。

「なぜいつものように頬を叩かない!怖いくせに、嫌だと言え!」

「するつもりもないってわかってるのに?」

「……何を言っている?」

私は持ち上げられた手を王子の頭にそっと載せた。ふわふわとした柔らかい髪を一度だけ撫でる。何が起こっているかわからない、というように瞬きすらすることなく大きく見開かれる瞳。

「本当は怖いのは自分でしょう。私がいなくなるのが怖いんでしょう?自分の顔がどうなっているか、わかってますか?」

私の手を振り払ってグイード殿下が立ち上がった。視線が交わらなくなっても私は彼に語りかけ続ける。

「仮面夫婦、してあげてもいいですよ。新しく花嫁候補が見つかるまでの間くらい一緒に居てあげます。どうせ私にはあっちでもこっちでも特にやりたいことはないですから」

命の危険があるって?もちろん怖いに決まっているけど、そんなもの今更といえば今更だ。何と言ったって私は、残念なことに恐らく……一度死んでいるのだから。そんな人、異世界中でも私ぐらいしかいないだろう。

あっち(元の世界)でもこっち(この世界)でも特に目的が無いのは変わらなくて、それならこの変な王子様のそばに居てみるのもいいかもしれないと思ってしまった。出会った時はあれほど嫌な奴だと思っていたのに、この考えに至った自分にびっくりだ。

「何を言ってるんだ……お前は馬鹿だが愚かではないだろう?ここに居るのは本当に危険なんだぞ?花嫁候補を辞めたいと、早くそう言え!」

出会った時からいつもいつも腹が立つ顔でこんな風に意地悪なことを言うくせに、今のようにふとした瞬間にアガットの瞳の奥に苦しそうな色を沈めているからだろうか。
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