限定なひと
 彼は誰に言われたわけでもないのに毎朝一番で出社し、黙々とみんなのデスクを拭いて回る。
 私が当番の時も御多分に洩れず、既に給湯室のポットがしゅんしゅん勢いよく湯気を上げていた。『お目当ての女の子が当番の時にしかやらない』なんていうまことしやかな噂話もあったから、全く期待していなかったけど、なんだかそういうのは彼らしくない気もしていた。
 予感は的中。やっぱり所詮、噂は噂。
 柄にもなく、つい嬉しくなってしまったからか、思わず私の口からお礼がこぼれ出た。するとなぜか、彼はものすごく驚いた様子でこちらをじっと見る、も。
 次の瞬間。目元が面倒そうに歪んで、視線が外される。
「別に、感謝されるいわれはないです。好き勝手でやってるだけですから」
 ぶっきらぼうな口調が心なしか照れているようにも思えて、私にはそれがまたほほえましく映った。でも。
「それにしても、この状況に疑問を持たないって、女子社員のみなさんは余程のお人好しか、思考停止してるんですかね」
 彼のその言葉で、私の笑顔が凍りつく。
「そ、そんなの、解ってやってるに決まってるじゃないですかっ!」
 思わず声を荒げると、またもや彼は驚嘆するように目を見開いた。なんだか、珍しい生き物でも見るような感じで。
「……ふぅん、そっか」
 彼はそう独り言ちると、私を見下すようで、そのくせ楽し気に目を細めた。まるで獲物を嬲る直前の猫の様だ。
< 3 / 88 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop