限定なひと
 少しして先生の娘さんから他の書道教室の紹介を何件か受けたけど、辞めるという私の気持ちに変わりはなかった。あれだけ子どもの習い事にご執心だった母も、さすがにここまで大きくなれば、とやかく言ってもこなかった。
 ただ、母は世間体や体裁に五月蠅い人だからか、先生のお見舞いだけは行って来いと、やたらとしつこい。もちろん行く気はあったけど、まだ意識も戻らないし、行っても会えるかどうかも分からない。先生の娘さんにも、お気持ちだけ、とやんわり断られてもいた。
 結局、菓子折りだけでも医局に預けてこいと無理矢理母親に送り出されてしまった私は、渋々病院に出向くと、拍子抜けするほどあっさり部屋に通されてしまった。
 誰かと間違われているのかとも思ったけれど、まぁいいか、とそのまま病室へと向かう。
 白と薄いグリーンを基調とした個室の扉を開けると、管だらけで眠ったままの先生が横たわるベッドの傍らに、その人は居た。
 静かに文庫本を繰っていた彼は、制服姿の私に一瞬身構えたようにも見えた。
「キミ、先生の御身内の方?」
 咄嗟に声が出なくて、頭を左右にふった。
「じゃあ、先生の生徒さん?」
 こくりと頷くと、彼の緊張した面持ちが一気に解けた。
「じゃあ僕と一緒だ。初めまして、これでも書家やってます、狭山と言います」
 そう言うと彼は、手元の文庫本の間から紙きれを一枚、差し出した。正直、こんな若い(と言っても、二十代の後半くらいだろうけど)書家を見たのは初めてだ。私は彼の見た目と違わぬ華奢で繊細そうな指先から、おずおずとそれを受け取りまじまじと見る。
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