限定なひと
 もちろん、肝心の私のお稽古に関しては必然的にいつも最後で、夜の7時半を回ったあたり。のらりくらりと始まるそれは、今までの教室のやり方と全然違っていて、あまりに自由度が高すぎた。
 まずお手本がない。もちろん、課題も。
 好きに書いていいよ、と言われれば、何を書いていいのか分からないとしか答えようもなくて、じゃあ書かなくてもいいよ、と言われて更に私は戸惑った。そんな私を見て、彼は楽しそうに文机に頬杖をついたまま、指先で黒縁眼鏡のテンプルをトントンと叩く。楽しそうだからいいかと放置していたら、だんだんと彼の目元が険しくなってきて、その時になって初めて気づいた。
 ああ、彼は楽しんでいたんじゃなくて、苛ついていたのか、と。
 徐々に彼のペース、彼のやり方が分かってくると、どんどん書の面白味も解って来る。それと同時に思い知らされるのは、今までの書道のつまらなさ。ぶちぶちとそれを口にすれば、彼はやはりテンプルを指先で叩きながら、それがあったからこその今なんじゃないの、と私を諭した。
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