水の踊り子と幸せのピエロ~不器用な彼の寵愛~
 走りながらライフジャケットを着用し終え、一目散に千紗の場所へと泳ぐ。泣きそうな表情を浮かべていた彼女も、波音の姿を確認すると、安堵したように笑って手を振った。

「先生ー!」
「南さん、大丈夫ですか? まずは、安全のためにこれを着てください」
「はい! ありがとうございます……」

 幸い、大きな波は来ていない。千紗の様子を見ながら、ライフジャケットを着用させ、膨らませる。これで海辺へと運べると、波音がほっとした瞬間。

 二人は再び強い離岸流で沖へと引っ張られ、直後に大きな波が向かってきた。波音は咄嗟に千紗の手を掴む。

「南さん!」
「せんせっ……きゃーっ!!」

 繋がれた手は、波に飲み込まれた衝撃によって、空しくも離れてしまった。水流に動きを阻まれ、波音は思うように動けない。

(まずい……!)

 どちらが水面なのかも分からないまま、水中で身体が回転し、目が回る。その間に、波音のライフジャケットは、するりと抜けてしまった。慌てて装着したせいで、緩くなっていたに違いない。

 水に慣れたはずの身体は、泳ぎ方を忘れてしまったようだ。不意に大量の潮水を飲み込み、波音は口を開けてぶくぶくと泡を吹く。藻掻《もが》きたいのに、苦しくて手足に力が入らない。

(これ、どうしよう……私、このまま……)

 千紗は無事だろうか。諦めが生まれた波音は抵抗を止めた。大和が助けに向かってくれていることを信じて、目を閉じる。

 瞼《まぶた》の裏には、「波音」と優しく名前を呼ぶ、碧の笑顔が浮かんでいた。
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