水の踊り子と幸せのピエロ~不器用な彼の寵愛~
 その後ろ姿が見えなくなってから、碧は波音の身体を上下くまなく確認し始めた。

「波音、あいつに何された? 大丈夫か?」
「何もされてないですよ。心配しないでください」
「……でも、プロポーズされてただろ」
「ああ、それは……はい」
「……受けるのか?」

 碧の声に、嫉妬が滲む。波音の胸が、不意にきゅんとした。たまらなく、碧の身体を抱きしめたくなる。

(ああ、やっぱり……。私、この人が好きなんだ)

 認めざるを得ない。波音は、目の前のこの男が、好きらしいのだ。碧兄ちゃんを想っていた感情と、同じようでどこか違う。

 碧兄ちゃんに似ているから好きになったのではなく、今ここにいる、深水碧そのものが愛しいのだ。

 波音は、碧の方に向き直って、その逞しい背中に腕を回して抱きついた。初めて、自分からそうした。

「砂紋さんのプロポーズは、お断りします。私は、曲芸団でまだまだ頑張りたいです。まだ水中ダンスも披露していませんし」
「そ、そうか。で、これは……?」
「ふと、抱きしめたくなったので」
「……なんか、お前の方が男前だな。悔しい」

 碧は波音の頭に顎を乗せ、男のプライドを見せるかのように抱きしめ返してきた。「好き」と、一言告げればそれでいいのに、波音は勇気が出ない。

 きっと碧もまんざらではないと思いたいが、明確な答えが出るのが怖いのだ。

(せめて、『水の踊り子』を成功させるまでは……)

 だから今は、抱きしめることでこの想いが伝わればいいと、波音はずるい方法を考える。

 潮騒と潮風に包まれながら抱きしめ合うと、あまりにも心地よくて――このまま元の世界に帰れなくても、彼がいるなら生きていけると思えた。
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