水の踊り子と幸せのピエロ~不器用な彼の寵愛~
「ん? もしかして、これも冗談なんですか? お仕事の話はなかったと?」
「アホか。仕事のことは真剣だ。お前が回復し次第、しっかり働いてもらう。とりあえず、今日は俺が家に連れて帰るから、俺の練習が終わるまでここで待ってろ」
「いたっ! 分かりました……」

 碧は軽い手刀を波音の頭に食らわせてにやりとすると、渚と一緒に医務室を出て行った。渚の背中がしょげていたことに、波音の心は罪悪感でちくりと痛んだ。

(碧さんと一緒の家、か……ありがたいけど、緊張する)

 波音には片想い以外の恋愛経験がない。異性と一つ屋根の下で二人きり、なんてシチュエーションも人生で初めてだ。

 もちろん、間違っても男女の関係になることはない。それは、渚の恋を邪魔しないという約束だから。

 どれほど酷使されるのか。馬車馬のように働かされるのは覚悟の上で、まだ命があることに波音は感謝した。生きていること以上に大切なことはない。

 こちらの世界に来てしまった原因は分からないが、移動できるのなら、元の世界に帰れる可能性も考えられる。

(でも、碧兄ちゃんの命日までには、多分間に合わない……)

 ここで同姓同名の深水碧に出会ったことに、運命的なものすら感じる。波音の、過去の碧を忘れられない気持ちが、彼と波音を引き合わせたようにも思えるのだ。あのまま海で溺れ死んでしまってもおかしくなかったのに、助かったことにはきっと意味があるはずだ。

 波音は胸に片手を当てて、ゆっくりとベッドに横になった。

(大和兄ちゃん、みんな……心配してるかな)

 まずは体力を回復させて、働きながらでも帰る方法を探そう。波音は心に言い聞かせて、目を閉じた。
< 33 / 131 >

この作品をシェア

pagetop