クールな御曹司の本性は、溺甘オオカミでした
私はここ三日、千石くんと話をしていない。何度か持田さんと山根さんにはつつかれた。話をしておかなくてもいいのか。このまま別れ別れでいいのか。そんなことを言われた。
でも、ふたりに私と千石くんの間にあった出来事を語るわけにもいかない。

私たちは抱き合い、それを思い出として葬ることにしたのだ。彼が私を諦めるといった理由はこのスペイン行きが最初から頭にあったからなのだろう。
彼の婚約ももしかすると、社長の千石くんの引き留め工作だったのかもしれない。今になってみればそんなことも思える。その後どうなったのかは聞いていないけれど。

「短い期間でしたが本当にお世話になりました」

いよいよその時だ。荷物を撤収し、総務をひと回り挨拶してきた千石くんが、二課の面々に頭を下げた。野口課長がうんうんと首を振る。

「向こうでも頑張ってね」
「ありがとうございます。二課で学んだことを活かしたいと思います」

千石くんがオフィスの入り口で頭を下げ、出て行く。行ってしまう。ああ、行ってしまった。
知らず、ぎゅっと下唇を噛みしめていた。

「真純先輩、お見送りに行かなくていいんですか?」

山根さんが何度目かの背を押す発言をしてくる。私はゆるく首を振った。

「もういいのよ」
「よくないと思いますよ!」

ありがたいけれど、私はこれでいい。おしまいでいいのだ。

「あの真純先輩」

持田さんが横から遠慮がちに言った。

「これは個人的な意見ですが、私は旅立ちの時に、お世話になった上司からひと言もらえたら嬉しいと思います。その言葉を胸に頑張ろうって思えると思います」

上司として、最後に彼に接してくればいい。
持田さんはそう言っている。

心がぐらぐらと揺らいだ。諦めるという決心の奥で、まだ納得できていない私がいる。
彼は私に何も話してくれていない。私には聞く権利はないかもしれない。
だけど……。

「真純先輩」
「わかった。ひと言、伝えてくる」

まんまと背中を押されて、私はオフィスを小走りに飛び出した。

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