ハーモニーのために
権利
ヒールがタイルにはずむ音が耳に心地よく響いた。下を覗いてみると、ボリュームのあるフリルのついた白いドレスをまとった少女が立っていた。彼女はこちらをうっとりとした目で見ていた。肩まで伸びた、流れるような漆黒の髪の毛と、目に宿る小さな線香花火が光っていた。頬が健康的なピンク色に染まり、唇は少し濡れて反射していた。大理石から目をそらし、近くにあった窓によりかかった。そよ風が頬に気持ち良く当たり、朝日が私の顔を照らした。沈むことのない太陽が山の奥から顔を覗かせていた。私は目をつぶって思い返してみた。
あの後、クラリシア様は真っ先に私の汚い作業服からこのドレスに着替えさせてくれた。それからずっと王宮で暮らさせてくれたのだ。女王の元でたくさんの演奏を聴き、音楽について学んだ。今ならあの木の塊がバイオリンだとか、黒い棒がクラリネットだとかがわかる。音楽の歴史についても、どんな作曲家がいてどんな人生を送り、どんな曲を作ったかもすべてクラリシア様からみんな教えてもらった。私は音楽が途端に自分にとってかけがえのない存在となっていた。書籍や資料の焼却処分の繰り返しが、今は美しい音に囲まれた生活を送っている。最初、女王は怖い方だと思っていたが、今は私にとって最も近い存在だ。楽譜に記されている音符をなぞる細長い指がやさしくて、曲を聴いているときのクラリシア様の顔は慈愛に満ちている。澄んだ声で私の興味をそそり、音符たちをみるみる色づけていく。二人で王宮のサロンで音楽を聴いたり、庭に出て音楽の勉強をしたりする毎日は幸せいっぱいだった。女王は何もわからなかった私に、音楽のことを親切に教えてくれるのだ。
私は床から目をそらし、壁に並び描かれた音符を眺めた。前に見たときにはこれがオタマジャクシに見えていたのだ。だが、今は私の目にはこれが色とりどりの音に見えるのだ。
「モニカ!そろそろ始まるわよ。」
クラリシア様の声がサロンのほうから聞こえた。
「はい!ただいま参ります。」
私は目を開けて急ぎ足で向かった。サロンの扉を開けてみてみると、今回は弦楽四重奏だということがわかった。左からバイオリン二台、ビオラ、チェロを持った男たちが準備をしていた。私はうきうきして女王が座る赤い椅子の元へ急いだ。
「今日はベートーヴェンの弦楽四重奏曲、第四番第一楽章よ!」
女王が目を大きくして興奮した口調で言った。私頷き、腰を椅子に掛けて心を躍らせた。ベートーヴェンは感情豊かな音が多い。私は彼の音楽にはいつも魅了されている。今回も、そんな感動を待ちわびていた。ファーストバイオリンの金髪男が前に出て礼をした。私はその男に見覚えがあった。そう、その男は私が初めて音楽を聴いたときに演奏していた者だ。一方的だが、私は親近感を彼に抱いた。そして、その男は椅子に座り、全員に合図をした。
いきなり始まった演奏は、心の奥底の悲しみをえぐるようだった。それが徐々に激しさをまし、ファーストバイオリンが高く美しい旋律を奏で始めた。大きく弓を振り、迫力がある演奏に私は心を打たれた。美しい音は激しさと悲しさを完璧に表現していた。しかし、次の瞬間、私を引っ張っていた糸がプツンと切れた。ファーストバイオリンの高い音がずれた。そして微妙に演奏全体がばらばらになり、糸がどんどんほどけていった。私は演奏の中から現実へとどんどん付き離されていった。それをかろうじてほかの楽器たちが修正した。次の旋律に入ろうとしたとき、聞き覚えのある地響きが耳を貫いた。
「やめえええっ!!!!」
音楽はパタリと止み、静寂が部屋を包んだ。隣を見ると、女王は怒りをあらわにしていた。目は充血し、眉毛が吊り上っていた。彼女は今にも爆発しそうだった。私はクラリシア様を恐怖の目で見つめた。いつもの謎に満ちた美しさは消え、不穏な空気の渦が彼女を取り巻いていた。
「よくも間違えてくれたわね。あなた、どうなるかわかっているのかしら。」
それはまるで女王が私に話しかけているように感じた。私は身震いし、のどが締め付けられるような気分だった。女王の黒いマニキュアがサロンの電球を反射し、その指が自分の皮膚に突き刺さるような錯覚に陥った。金髪の男も顔は青ざめ、楽器を持つ手は震えていた。まわりの演奏者も女王から顔をそむけ、顔色を悪くしていた。金髪男はいきなり椅子からずり落ち、女王の前に両手をついた。
「女王様、まことに申し訳ございません。どうかお許しください。どうかお許しを…」
「馬鹿者!それなら血反吐をはくぐらい練習して間違えないようにしろ!お前は失格だ。」
その姿はまことにあわれだった。いくらなんでもひどすぎる。月に何回もある演奏会で難解な曲を弾き、間違えないようにしなければいけないというプレッシャーにも勝たねばいけない。そんな中、あの程度のミスであれば仕方ないのではないか。そう思っていた私にお構いせず、女王はゆっくりと残酷な言葉を奏でた。
「条例通り、死刑だ。」
全員が氷のように固まった。私は自分の耳を疑って、女王を見た。彼女は私にほほ笑んだ。しかし、そのほほえみは悪魔のように不気味で恐ろしかった。男は石のように動かなかった。ほかの奏者も動かなかった。彼らは涙も声もすべてを失ったようだった。そして、気づくとバイオリンの男から少しずつ色が消えていった。きれいな髪の金色が抜け落ち、白髪になっていった。健康的な肌の色もぼやけてグレーに変色していった。男は自分の色の抜けた手を見て目を見開いた。
「お願いします!女王様、どうか、どうか…」
男の必死な叫び声が響くだけであった。女王は見向きもせず、後ろに合図を送った。すると、後ろのカーテンから、中世の騎士のような恰好をした二人の衛兵が現れた。彼らが歩くたびに金属音が響き、それが徐々に近づく死を宣告していた。白黒になった男は逃げようともせず、叫び声も徐々に弱まっていた。衛兵たちが彼の腕をつかんでも、彼は抵抗しなかった。
私はただ見ているだけなのか。自分は今まで見ているばかりだった。現実がどうなのか理解しようとも考えず、ただ言われたままのことをやってきた。そうしなければ生きていけない世界だったからだ。でも、たった一つのミスだけで罰されていいのだろうか。この国ではこのミスが殺人に匹敵するぐらいなのかもしれない。けれど、私にとってあの金髪男はそれだけの罪を犯したとは思わない。今まで彼が奏でていた音は素晴らしいものだった。私も、彼のおかげで音楽の素晴らしさに気付けたのだ。それを、たった一つの間違い、しかも音がずれただけで一人の才能ある人間を殺していいのだろうか。
「ちょっと待ってぇ!!」
気づいたら私は間抜けな声を出していた。何の意識もなかったが、何かしなければと考えていたらいつの間にかに大声を上げていた。衛兵たちは歩き出そうとした足を止めてくれた。白黒になった男は私を奇異の目で見つめた。女王を見る余裕はなかった。あとから後悔する羽目になりそうだと、いまさらながらに感じた。
「なんだい、モニカ。」
女王はいつもの優しい声で言った。しかし、私は彼女の荒れ果てた心を感じ取った。下手をすると私も死刑にされるかもしれない。今なら戻れる。しかし、そう簡単に体が言うことを聞かなかった。
「もう一度、チャンスをあげましょう、クラリシア様。彼はいつも頑張っていました。それを一つのミスで死刑っていうのはあんまりです。」
私の声はさっきより威厳にかけていて、最後のほうは細くかすれていた。そしてちらりと女王を見た。しかし、私は恐怖のあまりすぐに目をそらした。そこにいたのは女王ではなかった。女王が恐ろしい獣に変身したようだった。女王は私に歩み寄り、強い視線を投げかけた。
「つまり、あなたはミスを見逃して、いつまでもこやつをのこのこと生かしてやろうってことを言いたいのかい?」
私は目をつむった。冷気が私を取り囲み、押しつぶそうとしていた。目を開けると、女王は私に詰め寄っていた。彼女は私の肩を思いっきりつかみ、大声で顔に向かって叫んだ。
「いつから私にそんな生意気に口がきけるようになったの?!私が甘やかしすぎたのかしら?それならあんたもあの男のもとに行くのね!私がこの国を統治するの。私のやり方に不満なら今すぐ死になさい!」
彼女の爪は私の肌に食い込み、金切り声で耳は腫れ上がりそうだった。体を何回も大きくゆすられ、砕け散りそうになった。もうダメだ、と思った瞬間、新たな衛兵がサロンの扉からあわただしく入ってきた。
あの後、クラリシア様は真っ先に私の汚い作業服からこのドレスに着替えさせてくれた。それからずっと王宮で暮らさせてくれたのだ。女王の元でたくさんの演奏を聴き、音楽について学んだ。今ならあの木の塊がバイオリンだとか、黒い棒がクラリネットだとかがわかる。音楽の歴史についても、どんな作曲家がいてどんな人生を送り、どんな曲を作ったかもすべてクラリシア様からみんな教えてもらった。私は音楽が途端に自分にとってかけがえのない存在となっていた。書籍や資料の焼却処分の繰り返しが、今は美しい音に囲まれた生活を送っている。最初、女王は怖い方だと思っていたが、今は私にとって最も近い存在だ。楽譜に記されている音符をなぞる細長い指がやさしくて、曲を聴いているときのクラリシア様の顔は慈愛に満ちている。澄んだ声で私の興味をそそり、音符たちをみるみる色づけていく。二人で王宮のサロンで音楽を聴いたり、庭に出て音楽の勉強をしたりする毎日は幸せいっぱいだった。女王は何もわからなかった私に、音楽のことを親切に教えてくれるのだ。
私は床から目をそらし、壁に並び描かれた音符を眺めた。前に見たときにはこれがオタマジャクシに見えていたのだ。だが、今は私の目にはこれが色とりどりの音に見えるのだ。
「モニカ!そろそろ始まるわよ。」
クラリシア様の声がサロンのほうから聞こえた。
「はい!ただいま参ります。」
私は目を開けて急ぎ足で向かった。サロンの扉を開けてみてみると、今回は弦楽四重奏だということがわかった。左からバイオリン二台、ビオラ、チェロを持った男たちが準備をしていた。私はうきうきして女王が座る赤い椅子の元へ急いだ。
「今日はベートーヴェンの弦楽四重奏曲、第四番第一楽章よ!」
女王が目を大きくして興奮した口調で言った。私頷き、腰を椅子に掛けて心を躍らせた。ベートーヴェンは感情豊かな音が多い。私は彼の音楽にはいつも魅了されている。今回も、そんな感動を待ちわびていた。ファーストバイオリンの金髪男が前に出て礼をした。私はその男に見覚えがあった。そう、その男は私が初めて音楽を聴いたときに演奏していた者だ。一方的だが、私は親近感を彼に抱いた。そして、その男は椅子に座り、全員に合図をした。
いきなり始まった演奏は、心の奥底の悲しみをえぐるようだった。それが徐々に激しさをまし、ファーストバイオリンが高く美しい旋律を奏で始めた。大きく弓を振り、迫力がある演奏に私は心を打たれた。美しい音は激しさと悲しさを完璧に表現していた。しかし、次の瞬間、私を引っ張っていた糸がプツンと切れた。ファーストバイオリンの高い音がずれた。そして微妙に演奏全体がばらばらになり、糸がどんどんほどけていった。私は演奏の中から現実へとどんどん付き離されていった。それをかろうじてほかの楽器たちが修正した。次の旋律に入ろうとしたとき、聞き覚えのある地響きが耳を貫いた。
「やめえええっ!!!!」
音楽はパタリと止み、静寂が部屋を包んだ。隣を見ると、女王は怒りをあらわにしていた。目は充血し、眉毛が吊り上っていた。彼女は今にも爆発しそうだった。私はクラリシア様を恐怖の目で見つめた。いつもの謎に満ちた美しさは消え、不穏な空気の渦が彼女を取り巻いていた。
「よくも間違えてくれたわね。あなた、どうなるかわかっているのかしら。」
それはまるで女王が私に話しかけているように感じた。私は身震いし、のどが締め付けられるような気分だった。女王の黒いマニキュアがサロンの電球を反射し、その指が自分の皮膚に突き刺さるような錯覚に陥った。金髪の男も顔は青ざめ、楽器を持つ手は震えていた。まわりの演奏者も女王から顔をそむけ、顔色を悪くしていた。金髪男はいきなり椅子からずり落ち、女王の前に両手をついた。
「女王様、まことに申し訳ございません。どうかお許しください。どうかお許しを…」
「馬鹿者!それなら血反吐をはくぐらい練習して間違えないようにしろ!お前は失格だ。」
その姿はまことにあわれだった。いくらなんでもひどすぎる。月に何回もある演奏会で難解な曲を弾き、間違えないようにしなければいけないというプレッシャーにも勝たねばいけない。そんな中、あの程度のミスであれば仕方ないのではないか。そう思っていた私にお構いせず、女王はゆっくりと残酷な言葉を奏でた。
「条例通り、死刑だ。」
全員が氷のように固まった。私は自分の耳を疑って、女王を見た。彼女は私にほほ笑んだ。しかし、そのほほえみは悪魔のように不気味で恐ろしかった。男は石のように動かなかった。ほかの奏者も動かなかった。彼らは涙も声もすべてを失ったようだった。そして、気づくとバイオリンの男から少しずつ色が消えていった。きれいな髪の金色が抜け落ち、白髪になっていった。健康的な肌の色もぼやけてグレーに変色していった。男は自分の色の抜けた手を見て目を見開いた。
「お願いします!女王様、どうか、どうか…」
男の必死な叫び声が響くだけであった。女王は見向きもせず、後ろに合図を送った。すると、後ろのカーテンから、中世の騎士のような恰好をした二人の衛兵が現れた。彼らが歩くたびに金属音が響き、それが徐々に近づく死を宣告していた。白黒になった男は逃げようともせず、叫び声も徐々に弱まっていた。衛兵たちが彼の腕をつかんでも、彼は抵抗しなかった。
私はただ見ているだけなのか。自分は今まで見ているばかりだった。現実がどうなのか理解しようとも考えず、ただ言われたままのことをやってきた。そうしなければ生きていけない世界だったからだ。でも、たった一つのミスだけで罰されていいのだろうか。この国ではこのミスが殺人に匹敵するぐらいなのかもしれない。けれど、私にとってあの金髪男はそれだけの罪を犯したとは思わない。今まで彼が奏でていた音は素晴らしいものだった。私も、彼のおかげで音楽の素晴らしさに気付けたのだ。それを、たった一つの間違い、しかも音がずれただけで一人の才能ある人間を殺していいのだろうか。
「ちょっと待ってぇ!!」
気づいたら私は間抜けな声を出していた。何の意識もなかったが、何かしなければと考えていたらいつの間にかに大声を上げていた。衛兵たちは歩き出そうとした足を止めてくれた。白黒になった男は私を奇異の目で見つめた。女王を見る余裕はなかった。あとから後悔する羽目になりそうだと、いまさらながらに感じた。
「なんだい、モニカ。」
女王はいつもの優しい声で言った。しかし、私は彼女の荒れ果てた心を感じ取った。下手をすると私も死刑にされるかもしれない。今なら戻れる。しかし、そう簡単に体が言うことを聞かなかった。
「もう一度、チャンスをあげましょう、クラリシア様。彼はいつも頑張っていました。それを一つのミスで死刑っていうのはあんまりです。」
私の声はさっきより威厳にかけていて、最後のほうは細くかすれていた。そしてちらりと女王を見た。しかし、私は恐怖のあまりすぐに目をそらした。そこにいたのは女王ではなかった。女王が恐ろしい獣に変身したようだった。女王は私に歩み寄り、強い視線を投げかけた。
「つまり、あなたはミスを見逃して、いつまでもこやつをのこのこと生かしてやろうってことを言いたいのかい?」
私は目をつむった。冷気が私を取り囲み、押しつぶそうとしていた。目を開けると、女王は私に詰め寄っていた。彼女は私の肩を思いっきりつかみ、大声で顔に向かって叫んだ。
「いつから私にそんな生意気に口がきけるようになったの?!私が甘やかしすぎたのかしら?それならあんたもあの男のもとに行くのね!私がこの国を統治するの。私のやり方に不満なら今すぐ死になさい!」
彼女の爪は私の肌に食い込み、金切り声で耳は腫れ上がりそうだった。体を何回も大きくゆすられ、砕け散りそうになった。もうダメだ、と思った瞬間、新たな衛兵がサロンの扉からあわただしく入ってきた。