ハーモニーのために
それからどれだけ月日が経っただろうか。毎日がとてつもなく長く、乾ききった湖のようだった。ジャックのはにかみ、心を動かす演奏、深みのある美しい瞳を一瞬たりとも考えずにはいられなかった。私はまるで抜け殻のように毎日ジャブルーの門の方向を眺めた。今か今かとジャックが戻ってくる日を待ち続けながら。夢の中では私はジャックと一緒にあの美しい夕日を眺めている。二人で手をつないで、いつまでも…。たまに、彼が帰ってこないのではないかと恐ろしくなる。そして私はそれでもなお待ち続け、この病を背負ったまま生きていくのだろうかと悶々と考えた。そんな私をオーリアは気遣ってあまりジャックの話はせず、ジャズやこの町の歴史について語ってくれた。おかげで私はジャックの楽器がテナーサックスだということも知れたし、ニールの楽器はドラムだということも教えてもらった。ジャックが奏でていたのは、ジャズのソロというもので、ジャズはクラシックとは全然違うということもよくわかった。そのようなことに気を紛らわそうとしても、いつもジャックの笑顔が脳裏を横切る。何をしてもあのときのように胸が躍らないのだ。ジャックに会えないと、心がしぼんでなくなりそうな気がするのだ。


数か月後のある朝、近所の黒人女が大声をあげて中央通りを走っているのを見た。

「ジャックたちが帰ってきたよぉ!!みんな、バーに集まってお祝いだー!」

私はその声を聴いた途端、飛び上がった。そして急いでオーリアの元へ行き、言いたいことをまくしたてた。

「オーリア!オーリア!ジャックが帰ってきたわ!やっとよ!私、会いに行く!!」

オーリアははしゃぎまわっている私を落ち着いた目で見、それから台所作業に戻った。

「そうかい。でも朝食はまだできてないよ。」

ぶっきらぼうに言って、私の分のお皿を棚からとった。

「私はいいわ!あとでで。今はジャックに会いたくて仕方がないの!いいでしょ、オーリア!」

「ダメとは言わないわ。でもちゃんと戻ってきなさいよ。スープが冷める前に…。」

オーリアは私に目もくれず、スープを悲しい目で見つめていた。オーリアには悪いが、私は今ジャックに会えることで幸せいっぱいなのだ。オーリアもそれを知っているはずだ。そう思ってまたあの日のように急いでジャブルーの門へと走った。あの時よりも心臓が激しく鳴り、今にも喜びと期待のあまり泣き出しそうだった。私が門についたときには集団はもう馬から降りてバーに行ってしまったようだった。バーの扉に飛びつき、大胆にドアを開け放った。店内に大きくベルが鳴り響き、ニールの威勢のいい声が聞こえた。あまりにも混雑していたので最初はよくわからなかった。しかし、薄暗い店内を凝視しているうちに見つけるべきものが見つかった。あの金髪交じりの茶色い髪の毛がだれよりも輝いていた。一目散に彼のほうへ走った。たくさんの人が道をふさいで邪魔していたが、私はかまわず押し進んでいった。お酒とたばこの匂いが混じりあい、人々の熱気が私を包み込んだ。あと少し、手を伸ばせば触れられる――と思った瞬間、だれかに思いっきり跳ね飛ばされた。

「ジャックぅ、私にも」

媚びた声が頭上から響いた。続いてきつい妖艶な香水の匂いが鼻の奥を刺激した。ジャックと私の間には何人かの金髪の女がいた。彼女らはジャブルーに住んでいるお下げの女の子たちとは雰囲気が違った。マスカラと濃い口紅の化粧尽くしで、短いスカートにキャミソール姿だ。ジャックになれなれしくさわり、はにかむジャックの頬にキスをしている。足をジャックに絡め、強烈な視線でジャックを誘惑していた。私はその場から動けなかった。まず、何が起こっているのかも理解できなかった。どうしてジャックはこんな女たちに囲まれているのだろうか。私はここで何をしているのだろう。ゆっくりと立ち上がり、ジャックを女たちの隙間から凝視した。

ふと、ジャックと目があった。その時、私は何が起こっているのかすべてを把握した。彼の目に罪の色が一瞬現れ、すぐさまに彼は目をそらした。私が美しいと思った瞳の色は消えていた。彼のほほ笑みは純粋さを失っていた。私の膝はがくがくと震え、頭の中では不協和音がずっと響き、視界はぼやけて何も見えなくなってきた。頭がおかしくなりそうだった。心がおしつぶされ、ナイフのような鋭いもので突き刺され続けたようだった。気づいたら私の体はバーの扉へ向き、一目散に外に走り抜けた。バーで談笑する人たちの声が私をあざ笑っているかのように聴こえ、外のまぶしい太陽は私の逃げ場を隠した。そうね、私はきっとバカだったのよ!いとも簡単に歯の浮いたお世辞に乗せられ、男にだまされて!涙があふれてどこを走っているのかもわからなかった。この何か月もの間、私は何のために苦しみ、もがいていたのだろう。それがばかばかしくて悔しかった。このままあの崖に行って飛び降りてしまおうか、死んでしまいたいと思った。

しかしそんなことはしなかった。私はオーリアの家にかろうじて戻った。ドアを今まで以上にゆっくりと開け、あまり音をたてないように中に入った。オーリアは椅子に腰かけて編み物をしていた。私が入ってきても、顔を上げずに作業を続けた。

「オーリア、あなたはこうなることを知っていたのね。」

私は彼女の前に立って返答を待った。彼女は何も言わず、そのまま編み物をつづけた。そして老眼鏡をずらしてから私を上目使いにして一瞬みた。「なぜこうなるって言ってくれなかったの?そうしたらジャックを待っている間にこんなに期待しなかったのに。こんなに…泣くことはなかったのに。」
テーブルの上に置いてあったスプーンに映った私の顔はあわれだった。目は泣きすぎて腫れ上がり、髪の毛はかき乱れていた。

「言っても本心からは信じないからさ。」

オーリアは澄ました顔でスプーンを台所へ持っていった。

「人は恋をしていると何も見えなくなる。何を言われたって変わらないし、仕方ないことなのだよ。失恋だって人生には必要なのさ。」

「ジャックは…あんな人だって知らなかった。あんなに素敵だったはずなのに…。」

「あーいう男なんだよ。今まで何人女の子泣かせただろうかね…。」

「オーリアはそんな男が許せるの?!あんなにのんきに生きていて、憎たらしい!」

「そりゃあ許せないよ。だけど、それをやめさせることはできない。ここは自由の町なんだもの。」

オーリアは私の肩に手を置き、やさしい目でなだめた。

「ねえ、モニカ。ジャックは愚か者だよ。そんな男にもうこれ以上振り回されたくないだろう?ジャックはもう忘れなさい。また新しい恋を見つけられるよ…」

私はもうオーリアの言葉を聴いていなかった。何もかも干からびて、この世からなくなってしまいそうだった。
その夜は今までで一番寝られない夜であった。オーリアの言っていることは正しいが、納得がいかなかった。ああやって人の気持ちを踏みにじるなんて…。そして私は決心した。この町をでる。息苦しくて仕方がない。自由なんて、クラリシア様の弾圧と変わらずつらいじゃないか。荷造りを済ませ、オーリアに気付かれないようにドアをゆっくりと開けて出て行った。最後にありがとう、と言っておけばよかった。しかし、もう後戻りする気はない。

活気のない夜の町は少し不気味だった。星が小さな輝きを放ち、月明かりが歩くべき道を照らしてくれた。ジャブルーの門を通り抜けようとしたときに、ふと、あることを思いついた。急いで引き返し、角を曲がったところにある緑色の一戸建ての前まで歩いて行った。玄関前に「Jack Zoolon」と書かれていた。ゆっくりとドアノブをひねったらいとも簡単に開いた。中にはだれもいないはずだ。ジャックは今頃あの女たちとどこか別の場所で寝ている。私がここにやってきた理由はただ一つだ。ジャックの部屋に忍び足で入り込み、机の上に無造作に置いてある楽譜を見つけた。きっとこれだろう。赤いきれいなリボンで結んである、特別な楽譜。クラリシアの国にいたときに、これが特別であることは部外者の私でも容易にわかった。きっと、今回の旅でこれを奪えたのだろう。これを私が奪って、ジャックをうんと困らしてやろう。荷物をまとめたカバンに楽譜をそっと入れ、ジャブルーの門へと駆け足で向かった。そして集団のひときわおとなしい馬にまたがって、ジャブルーの町を出て行った。心の中で、ジャックにも、オーリアにもジャズにもお別れを言って。 
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