華雪封神伝～純潔公主は堅物武官の初恋を知る～
華雪公主と絃秀太子
武闘大会での役目を終え、すっかり気疲れして会場から退出した彼女は、滅多に人が訪れることのない、皇城のはずれにある小さな庭園にやって来た。
幼い頃に見つけて以来、息抜きしたいことがあるとここに来るのだ。秘密の場所、というほどでもないが、これといって特徴のある庭でもないため、わざわざ足を伸ばす者がいないのがありがたい。
頬を撫でる風を楽しんでいると、軽やかな訪れの声かけがあった。
見ると、弟の絃秀が手を振っている。華雪のお気に入りの場所を知っているのは、彼だけだ。
「姉さま。お疲れですか？」
「んー……。ちょっとだけ。あなたは元気そうね、絃秀」
作りものではない笑みを浮かべて言うと、絃秀はえっへんと胸を張る。
「実は最近、目を開いたまま眠るという、素敵な技を身に着けたのです！」
「そう。立派ねぇ。あんまり目が乾かないように、気をつけるのよ」
はい、と素直にうなずいた彼は、十一歳の少年としては少々小柄だ。顔立ちも少女めいて愛らしく、あまり男くささを感じさせない。少し癖のある栗色の髪といい、弟の容姿は絶世の美女と名高い母に、よく似ている。
とはいえ、妖艶な雰囲気をこれでもか！とばかりにまとっている母とは違い、絃秀の持つ空気はどこまでも清涼で柔らかだ。
彼はきっと、周囲の意見をよく聞き入れ、穏やかな治世を築く皇帝となるだろう。
（今上陛下も、素晴らしい皇帝ではあるのですよね。歴代でもかなりのキレ者だと言われているだけあって、陛下が即位してから国民の生活水準はどんどん上がっていますし。多少、政敵めいた貴族たちはいるけれど、彼らの動きもきちんと把握して、不穏分子が暗躍する隙も与えていない。本当に、立派な方なのだけど……）
――非常に残念なことに、当代皇帝は、歴代の中でも指折りの女好きであった。
好みの美女を見つけると、相手が人妻でない限り、即座に口説いて後宮に迎え入れるのだ。
お陰で、後宮の秩序を一手に引き受ける皇后の苦労は、尽きることがない。彼女は、そこらの文官や武官よりも、よっぽど激務をこなしていると思われる。
その点について、華雪は深く彼女に同情していた。
とはいえ皇后は、政略的な思惑の下で皇帝に嫁いでいる。娘の目から見ても、夫に対し熱量のある愛情を抱いているようには思えない。女好きの夫が抱える後宮を統べる苦労については、結婚前から覚悟していたのだろう。
ただ、「いったい、この方はいつ眠っているのかしら」と思うほど忙殺されているようなのに、その美貌にまったく衰えが見えないのが、最近ちょっぴり怖くなっている華雪だった。自分の母親が、だんだん姉にしか見えなくなってくる事実というのは、ときおり背筋が寒くなるものなのだ。
と、彼女の足元の芝生に腰を下ろし、のんびりとくつろいでいた絃秀が、何かを思い出したように顔を上げる。
「そうだ、姉さま。先日、歴史の授業の時間に、この宝迦国に封じられている神々のことを学びました。とても、興味深かったです」
「まぁ……そう。あなたも、もうじき十二歳だものね」
表情を曇らせた華雪に気づいたのか、弟は慌てた様子で背筋を伸ばした。
「そんな顔をなさらないでください、姉さま。たしかに、初代皇帝が封じた神々を奉り、その災厄が国に降りかからないようにすることが、代々の皇帝たる者の勤めだと教わりました。そしてそれが、もっとも色濃く初代皇帝の血を引く男子にしか、果たせない役目だということも」
「……えぇ、そうね。わたしが男子として生まれていれば、あなたひとりにこんな辛い役目を背負わせることもなかったでしょうに」
初代皇帝の遺言により、代々皇帝として立てるのは男子だけだ。女子として生まれた華雪には、その資格がない。
（わたしだって、防御宝貝の製作と操作ならば、大抵の人間に負けない自信はあるけれど……。今日のような武闘大会に参加しろと言われたら、即座に不戦敗を選択してしまうわ）
華雪は、大変な運動音痴なのだ。
とくに体が弱いわけではないのだが、今までかけっこで勝ったことはないし、腕相撲も然り。腹違いの姉妹たちから、しょっちゅう陰で「本当に、どんくさいったら」と笑われているのも知っている。
現在、皇帝の子で彼と同じ、淡い紫色の瞳を道士の証として備えているのは、華雪と絃秀のふたりだけだ。潜在道力の保有量も、ほかの兄弟姉妹と比べると群を抜いている。
だが華雪としては、無駄に高い道力よりも、もっと速く走れる足が欲しかった。
しょんぼりした華雪に、絃秀が朗らかに笑って言う。
「僕は、姉さまが姉さまでよかったですよ。もし兄さまだったら、今頃きっと、陛下そっくりの女たらしになっていたでしょうからね！」
「……ちょっと、絃秀。あまり失礼なことを言わないで」
半目になって睨みつけるが、とっても可愛いくせに、最近図太さに磨きがかかっている弟は、びくともしない。
くすくすと笑って、小首をかしげながら口を開く。
「だって、最近の姉さまときたら、陛下をお若くして女性にしたような、まったく見事な美女ぶりだと、皇城のみなが噂しておりますよ」
華雪は、心の底からげんなりした。
自分たちの父親である皇帝は、艶やかな黒髪を今でもしっかり総髪に保っている、お色気たっぷりの美中年だ。若い頃には、側付きの女官たちがみな揃ってのぼせ上り、まるで仕事にならなくなる、という事態が珍しくなかったらしい。
「女たらしの陛下に似ていると言われて、どうしてわたしが喜ぶと思うの？ 絃秀」
「べつに、褒(ほ)めたわけじゃないですもん。……あのね、姉さま。最近、色の道に詳しそうな中年男に会うたび『ますます皇后に似て、お美しくなられましたな』って言われる僕の気持ちが、姉さまにわかる？」
絃秀が、死んだ魚のような目になった。
華雪は思わず、彼の頭をよしよしと撫でる。
「大丈夫よ、絃秀。たとえあなたが男性の側室を迎えたとしても、わたしはちゃんと、お相手の方を義弟として認めてあげるわ」
「～～っ、冗談でも、そんなことを言うのはやめてください！」
真っ赤になって叫ぶが、弟の分際で姉をからかうほうが悪いのだ。
ふふふ、と黒い笑みを浮かべた華雪は、頬杖をついて絃秀を見た。
「ねぇ、絃秀。わたしは近い将来、お嫁にいくわ。そうなったら、こんなふうに気軽に会うことも、もうできなくなるでしょう」
「……はい」
言わずとも、互いにわかっていたことだ。華雪は、皇帝にとってもっとも利用価値のある政略結婚の駒である。だからこそ、その嫁ぎ先には吟味に吟味を重ねているため、いまだ確定していない。
けれど、そんな猶予期間もそろそろ終わりだ。結婚適齢期真っただ中の華雪を得ようと、貴族たちがいっそう熱を上げているのは、彼女の耳にも伝わっている。
華雪は、弟の頭をもう一度撫でた。
「でも、わたしはいつだって、あなたの一番の味方よ。それだけは、お願いだから忘れないで」
「はい。わかっています」
素直にうなずく彼に、華雪は笑みを深めて続ける。
「これからあなたは、たくさんの命や願いを背負って生きることになる。自分の心に、嘘をつかなければならないこともあるでしょう。でも、わたしだけは、絶対にあなたに嘘はつかないわ」
「姉さまは……嘘をつくのが、下手だから」
絃秀が、泣き笑いの表情で言う。
それは心外だ、と彼女は弟の頬を指先でつついた。
「失礼ね。〝華雪公主〟は、嘘をつくのがとっても上手なのよ」
「本当かなぁ」
絃秀の姉である彼女は、たしかに彼に嘘をつくことができない。
けれど、公主としての彼女は――。
（絃秀。あなたを守るためなら、わたしはいくらだって、笑って嘘をつけるのよ）
――それが、戦いに不向きな女として生まれ、弟に玉座という重すぎる荷を押しつけてしまった姉としての、せめてもの償いだった。
幼い頃に見つけて以来、息抜きしたいことがあるとここに来るのだ。秘密の場所、というほどでもないが、これといって特徴のある庭でもないため、わざわざ足を伸ばす者がいないのがありがたい。
頬を撫でる風を楽しんでいると、軽やかな訪れの声かけがあった。
見ると、弟の絃秀が手を振っている。華雪のお気に入りの場所を知っているのは、彼だけだ。
「姉さま。お疲れですか？」
「んー……。ちょっとだけ。あなたは元気そうね、絃秀」
作りものではない笑みを浮かべて言うと、絃秀はえっへんと胸を張る。
「実は最近、目を開いたまま眠るという、素敵な技を身に着けたのです！」
「そう。立派ねぇ。あんまり目が乾かないように、気をつけるのよ」
はい、と素直にうなずいた彼は、十一歳の少年としては少々小柄だ。顔立ちも少女めいて愛らしく、あまり男くささを感じさせない。少し癖のある栗色の髪といい、弟の容姿は絶世の美女と名高い母に、よく似ている。
とはいえ、妖艶な雰囲気をこれでもか！とばかりにまとっている母とは違い、絃秀の持つ空気はどこまでも清涼で柔らかだ。
彼はきっと、周囲の意見をよく聞き入れ、穏やかな治世を築く皇帝となるだろう。
（今上陛下も、素晴らしい皇帝ではあるのですよね。歴代でもかなりのキレ者だと言われているだけあって、陛下が即位してから国民の生活水準はどんどん上がっていますし。多少、政敵めいた貴族たちはいるけれど、彼らの動きもきちんと把握して、不穏分子が暗躍する隙も与えていない。本当に、立派な方なのだけど……）
――非常に残念なことに、当代皇帝は、歴代の中でも指折りの女好きであった。
好みの美女を見つけると、相手が人妻でない限り、即座に口説いて後宮に迎え入れるのだ。
お陰で、後宮の秩序を一手に引き受ける皇后の苦労は、尽きることがない。彼女は、そこらの文官や武官よりも、よっぽど激務をこなしていると思われる。
その点について、華雪は深く彼女に同情していた。
とはいえ皇后は、政略的な思惑の下で皇帝に嫁いでいる。娘の目から見ても、夫に対し熱量のある愛情を抱いているようには思えない。女好きの夫が抱える後宮を統べる苦労については、結婚前から覚悟していたのだろう。
ただ、「いったい、この方はいつ眠っているのかしら」と思うほど忙殺されているようなのに、その美貌にまったく衰えが見えないのが、最近ちょっぴり怖くなっている華雪だった。自分の母親が、だんだん姉にしか見えなくなってくる事実というのは、ときおり背筋が寒くなるものなのだ。
と、彼女の足元の芝生に腰を下ろし、のんびりとくつろいでいた絃秀が、何かを思い出したように顔を上げる。
「そうだ、姉さま。先日、歴史の授業の時間に、この宝迦国に封じられている神々のことを学びました。とても、興味深かったです」
「まぁ……そう。あなたも、もうじき十二歳だものね」
表情を曇らせた華雪に気づいたのか、弟は慌てた様子で背筋を伸ばした。
「そんな顔をなさらないでください、姉さま。たしかに、初代皇帝が封じた神々を奉り、その災厄が国に降りかからないようにすることが、代々の皇帝たる者の勤めだと教わりました。そしてそれが、もっとも色濃く初代皇帝の血を引く男子にしか、果たせない役目だということも」
「……えぇ、そうね。わたしが男子として生まれていれば、あなたひとりにこんな辛い役目を背負わせることもなかったでしょうに」
初代皇帝の遺言により、代々皇帝として立てるのは男子だけだ。女子として生まれた華雪には、その資格がない。
（わたしだって、防御宝貝の製作と操作ならば、大抵の人間に負けない自信はあるけれど……。今日のような武闘大会に参加しろと言われたら、即座に不戦敗を選択してしまうわ）
華雪は、大変な運動音痴なのだ。
とくに体が弱いわけではないのだが、今までかけっこで勝ったことはないし、腕相撲も然り。腹違いの姉妹たちから、しょっちゅう陰で「本当に、どんくさいったら」と笑われているのも知っている。
現在、皇帝の子で彼と同じ、淡い紫色の瞳を道士の証として備えているのは、華雪と絃秀のふたりだけだ。潜在道力の保有量も、ほかの兄弟姉妹と比べると群を抜いている。
だが華雪としては、無駄に高い道力よりも、もっと速く走れる足が欲しかった。
しょんぼりした華雪に、絃秀が朗らかに笑って言う。
「僕は、姉さまが姉さまでよかったですよ。もし兄さまだったら、今頃きっと、陛下そっくりの女たらしになっていたでしょうからね！」
「……ちょっと、絃秀。あまり失礼なことを言わないで」
半目になって睨みつけるが、とっても可愛いくせに、最近図太さに磨きがかかっている弟は、びくともしない。
くすくすと笑って、小首をかしげながら口を開く。
「だって、最近の姉さまときたら、陛下をお若くして女性にしたような、まったく見事な美女ぶりだと、皇城のみなが噂しておりますよ」
華雪は、心の底からげんなりした。
自分たちの父親である皇帝は、艶やかな黒髪を今でもしっかり総髪に保っている、お色気たっぷりの美中年だ。若い頃には、側付きの女官たちがみな揃ってのぼせ上り、まるで仕事にならなくなる、という事態が珍しくなかったらしい。
「女たらしの陛下に似ていると言われて、どうしてわたしが喜ぶと思うの？ 絃秀」
「べつに、褒(ほ)めたわけじゃないですもん。……あのね、姉さま。最近、色の道に詳しそうな中年男に会うたび『ますます皇后に似て、お美しくなられましたな』って言われる僕の気持ちが、姉さまにわかる？」
絃秀が、死んだ魚のような目になった。
華雪は思わず、彼の頭をよしよしと撫でる。
「大丈夫よ、絃秀。たとえあなたが男性の側室を迎えたとしても、わたしはちゃんと、お相手の方を義弟として認めてあげるわ」
「～～っ、冗談でも、そんなことを言うのはやめてください！」
真っ赤になって叫ぶが、弟の分際で姉をからかうほうが悪いのだ。
ふふふ、と黒い笑みを浮かべた華雪は、頬杖をついて絃秀を見た。
「ねぇ、絃秀。わたしは近い将来、お嫁にいくわ。そうなったら、こんなふうに気軽に会うことも、もうできなくなるでしょう」
「……はい」
言わずとも、互いにわかっていたことだ。華雪は、皇帝にとってもっとも利用価値のある政略結婚の駒である。だからこそ、その嫁ぎ先には吟味に吟味を重ねているため、いまだ確定していない。
けれど、そんな猶予期間もそろそろ終わりだ。結婚適齢期真っただ中の華雪を得ようと、貴族たちがいっそう熱を上げているのは、彼女の耳にも伝わっている。
華雪は、弟の頭をもう一度撫でた。
「でも、わたしはいつだって、あなたの一番の味方よ。それだけは、お願いだから忘れないで」
「はい。わかっています」
素直にうなずく彼に、華雪は笑みを深めて続ける。
「これからあなたは、たくさんの命や願いを背負って生きることになる。自分の心に、嘘をつかなければならないこともあるでしょう。でも、わたしだけは、絶対にあなたに嘘はつかないわ」
「姉さまは……嘘をつくのが、下手だから」
絃秀が、泣き笑いの表情で言う。
それは心外だ、と彼女は弟の頬を指先でつついた。
「失礼ね。〝華雪公主〟は、嘘をつくのがとっても上手なのよ」
「本当かなぁ」
絃秀の姉である彼女は、たしかに彼に嘘をつくことができない。
けれど、公主としての彼女は――。
（絃秀。あなたを守るためなら、わたしはいくらだって、笑って嘘をつけるのよ）
――それが、戦いに不向きな女として生まれ、弟に玉座という重すぎる荷を押しつけてしまった姉としての、せめてもの償いだった。
