華雪封神伝~純潔公主は堅物武官の初恋を知る~
皇太子の得意技
話し込んでいたせいで、少し喉が渇いている。華雪は通信宝貝で侍女にお茶を持ってくるよう頼んだ。
絃秀が向かいの椅子に腰を下ろしたところに、かぐわしいジャスミン茶が届く。
可愛らしい茶器には、季節の花々を象った小さな砂糖菓子が添えられている。それをひとつつまんで口に入れると、ほろほろと溶けて優しい甘さが広がった。
同じように砂糖菓子をつまんでいた絃秀が、ふと何かに気づいたように振り返る。そして、勢いよく立ち上がると、弾んだ声で口を開く。
「陵威殿! こんなところへ、どうなさったのですか? あぁ、そうだ。まずは、お祝いを申し上げなければなりませんね。このたびは、優勝おめでとうございます!」
絃秀が迎えた彼は、先ほど華雪が祝福したばかりの江陵威であった。
茶器を持ったまま、華雪はしばしの間、固まってしまう。
(えぇと……? なぜ、陵威さまが――というのは、ここが公共の場であるのだから、この際置いておくとして。どうして、絃秀はこんなに陵威さまと親しげなのかしら?)
いくら仲のいい姉弟とはいえ、華雪とて絃秀の交友関係をすべて把握しているわけではない。とくに、少年同士の付き合いに関しては、わからないことのほうが多いだろう。
しかし、陵威は立派な成人男性であるし、何より禁軍左軍将軍のひとり息子だ。そんな重要人物との交流ならば、わざわざ絃秀が語らずとも、侍女たちの噂話という形で華雪の耳に入っていなければおかしい。
絃秀に礼を述べ、穏やかな笑みを浮かべる彼は、自分になつく少年をほほえましく受け止めているようだ。
ふたりはいったい、どこで知り合ったのだろう。
不思議に思いつつも、華雪は立ち上がって陵威に軽く会釈する。
「こんにちは、陵威さま。先ほどは、大変お疲れさまでした」
「ありがとうございます、華雪公主。おふたりの語らいのお邪魔をしてしまったようで、申し訳ありません。実は、一度宿舎に戻ろうと思ったのですが……。その、あちこちの貴族の方々が通り道に陣取っておりまして。捕まったら面倒なことになると思い、彼らを避けて歩いていたところ、こちらにたどり着いてしまった次第なのです」
なるほど、と華雪は絃秀と目を見合わせる。
貴族たちは、いよいよ将来有望になった陵威を婿に迎えるべく、さっそく挨拶攻撃に繰り出したらしい。
うんざりした様子の彼の気持ちが、華雪にはとてもよくわかる。くすくすと笑いながら、陵威に言う。
「もしよろしければ、こちらで時間を潰していかれますか?」
驚いたように目を瞠った彼が、少し迷うふうにしてから口を開く。
「それは……光栄ですが。自分などがおふたりとご一緒して、よろしいのでしょうか?」
「まぁ。陵威さまは、本日の大会の優勝者ではありませんか。ご一緒させていただけるなら、光栄なのはこちらのほうです」
それに、と華雪はちらりと絃秀を見る。
「皇太子殿下と、ずいぶん親しげでいらっしゃいますでしょう? おふたりがどちらで交流を深められたのか、教えていただけると嬉しいです」
これはべつに「わたしの可愛い絃秀と、勝手に仲よくなるなんて!」という姉の嫉妬などではない。ただ単に、あまり接点がないように見える彼らがどこで知り合ったのかが、不思議だっただけである。断じて、仲間外れが悔しかったわけではない。そう、断じて。
陵威が椅子に着くなり、華雪の疑問に答えたのは、憧れの眼差しで彼を見ている絃秀だ。
「姉さま。陵威殿には、先日街へ出ていたときに、大変お世話になったんですよ」
華雪は、あやうく飲みかけの茶を吹き出すところだった。
何しろ、絃秀はお忍びで街へ遊びにいくとき、皇太子という素性がばれないよう、非常に完成度の高い女装をするのだ。
まさか、と思いながら話の続きを待っていると、絃秀はけろりとした様子で言う。
「そのとき僕は、いつも通り若い娘の格好をしていたのですが……。一瞬、目が合っただけだったのに、陵威殿はものすごく不思議そうな様子で『こんなところで何をしていらっしゃるんですか? 皇太子殿下』とおっしゃいまして」
(な……なんてこと……!)
華雪は、青ざめた。
一国の皇太子が、護衛のひとりも付けずに街遊びをしていただけでも、大問題なのだ。その上、女の格好をしていたなどと知れれば、皇位を継ぐ者としての自覚がない、と断じられてもおかしくない。
いくら絃秀の女装姿が可愛くて、皇后の若い頃に生き写しの超絶美少女であったとしても、武の道に生きる者の目には、惰弱と映ることもある。
もし陵威が周囲の同輩たちにこのことを吹聴していれば、絃秀の宮廷内での立場は、非常に微妙なものになっていただろう。
(わたしの可愛い絃秀が、貴族や官吏たちから『女装趣味の皇太子』と呼ばれるなんて……! あらやだ、むしろまた人気が出てしまうのではないかしら。絃秀の女装姿は、本当にとっても可愛らしいもの)
それはそれでアリかもしれない、と華雪はうなずく。
しかし、現状そういった噂が出ていないところを見ると、陵威は沈黙を守ってくれているようだ。
絃秀は朗らかに笑って続けた。
「僕が、ただ民の生活を見聞していただけだと言うと、陵威殿は『それは、素晴らしいことですね』と。それから、他言無用を誓ってくれた上で、いろいろなところに案内をしてくださったんです。さすがに武官だけあって、連れていってくださったのは、品揃えのいい武器屋や、腕のいい宝貝職人の店ばかりでしたけれど……。それまでに行ったことがないところばかりで、とても面白かったです」
「まぁ……」
弟が語った街歩きの様子を、華雪は想像してみる。
――ぴしりと隙のない、いかにも身分の高い武官でございます、という陵威が、絶世の美少女にしか見えない絃秀を伴い、色気も素っ気もない店ばかりを渡り歩く――。
駄目だ。それは陵威が、若い女性の扱いがまったくなっていない朴念仁にしか見えない光景である。
青ざめた華雪は、陵威に深々と頭を下げた。
「陵威さま……。皇太子殿下がご迷惑をおかけしてしまったようで、本当に申し訳ございませんでした」
しかし、陵威は己の置かれた状況をわかっているのかいないのか、どこまでも泰然とした様子である。
「いえ、迷惑などではありませんでしたよ。こちらも、武官仲間とは違う視点で語られる殿下のお言葉に、いろいろと気づかされることがありました。大変有意義な休日を過ごさせていただき、感謝しております」
(……えぇ。陵威さまは武闘大会で優勝するような立派な武官なのですもの。多少の不名誉な噂など、意に介する必要はないのかもしれませんね)
いずれにせよ、今日の大会の優勝者である彼は、縁談に困るということだけはないはずだ。そう思うことで、ちくちくと良心をつつく罪悪感と、折り合いをつけることにする。
絃秀が向かいの椅子に腰を下ろしたところに、かぐわしいジャスミン茶が届く。
可愛らしい茶器には、季節の花々を象った小さな砂糖菓子が添えられている。それをひとつつまんで口に入れると、ほろほろと溶けて優しい甘さが広がった。
同じように砂糖菓子をつまんでいた絃秀が、ふと何かに気づいたように振り返る。そして、勢いよく立ち上がると、弾んだ声で口を開く。
「陵威殿! こんなところへ、どうなさったのですか? あぁ、そうだ。まずは、お祝いを申し上げなければなりませんね。このたびは、優勝おめでとうございます!」
絃秀が迎えた彼は、先ほど華雪が祝福したばかりの江陵威であった。
茶器を持ったまま、華雪はしばしの間、固まってしまう。
(えぇと……? なぜ、陵威さまが――というのは、ここが公共の場であるのだから、この際置いておくとして。どうして、絃秀はこんなに陵威さまと親しげなのかしら?)
いくら仲のいい姉弟とはいえ、華雪とて絃秀の交友関係をすべて把握しているわけではない。とくに、少年同士の付き合いに関しては、わからないことのほうが多いだろう。
しかし、陵威は立派な成人男性であるし、何より禁軍左軍将軍のひとり息子だ。そんな重要人物との交流ならば、わざわざ絃秀が語らずとも、侍女たちの噂話という形で華雪の耳に入っていなければおかしい。
絃秀に礼を述べ、穏やかな笑みを浮かべる彼は、自分になつく少年をほほえましく受け止めているようだ。
ふたりはいったい、どこで知り合ったのだろう。
不思議に思いつつも、華雪は立ち上がって陵威に軽く会釈する。
「こんにちは、陵威さま。先ほどは、大変お疲れさまでした」
「ありがとうございます、華雪公主。おふたりの語らいのお邪魔をしてしまったようで、申し訳ありません。実は、一度宿舎に戻ろうと思ったのですが……。その、あちこちの貴族の方々が通り道に陣取っておりまして。捕まったら面倒なことになると思い、彼らを避けて歩いていたところ、こちらにたどり着いてしまった次第なのです」
なるほど、と華雪は絃秀と目を見合わせる。
貴族たちは、いよいよ将来有望になった陵威を婿に迎えるべく、さっそく挨拶攻撃に繰り出したらしい。
うんざりした様子の彼の気持ちが、華雪にはとてもよくわかる。くすくすと笑いながら、陵威に言う。
「もしよろしければ、こちらで時間を潰していかれますか?」
驚いたように目を瞠った彼が、少し迷うふうにしてから口を開く。
「それは……光栄ですが。自分などがおふたりとご一緒して、よろしいのでしょうか?」
「まぁ。陵威さまは、本日の大会の優勝者ではありませんか。ご一緒させていただけるなら、光栄なのはこちらのほうです」
それに、と華雪はちらりと絃秀を見る。
「皇太子殿下と、ずいぶん親しげでいらっしゃいますでしょう? おふたりがどちらで交流を深められたのか、教えていただけると嬉しいです」
これはべつに「わたしの可愛い絃秀と、勝手に仲よくなるなんて!」という姉の嫉妬などではない。ただ単に、あまり接点がないように見える彼らがどこで知り合ったのかが、不思議だっただけである。断じて、仲間外れが悔しかったわけではない。そう、断じて。
陵威が椅子に着くなり、華雪の疑問に答えたのは、憧れの眼差しで彼を見ている絃秀だ。
「姉さま。陵威殿には、先日街へ出ていたときに、大変お世話になったんですよ」
華雪は、あやうく飲みかけの茶を吹き出すところだった。
何しろ、絃秀はお忍びで街へ遊びにいくとき、皇太子という素性がばれないよう、非常に完成度の高い女装をするのだ。
まさか、と思いながら話の続きを待っていると、絃秀はけろりとした様子で言う。
「そのとき僕は、いつも通り若い娘の格好をしていたのですが……。一瞬、目が合っただけだったのに、陵威殿はものすごく不思議そうな様子で『こんなところで何をしていらっしゃるんですか? 皇太子殿下』とおっしゃいまして」
(な……なんてこと……!)
華雪は、青ざめた。
一国の皇太子が、護衛のひとりも付けずに街遊びをしていただけでも、大問題なのだ。その上、女の格好をしていたなどと知れれば、皇位を継ぐ者としての自覚がない、と断じられてもおかしくない。
いくら絃秀の女装姿が可愛くて、皇后の若い頃に生き写しの超絶美少女であったとしても、武の道に生きる者の目には、惰弱と映ることもある。
もし陵威が周囲の同輩たちにこのことを吹聴していれば、絃秀の宮廷内での立場は、非常に微妙なものになっていただろう。
(わたしの可愛い絃秀が、貴族や官吏たちから『女装趣味の皇太子』と呼ばれるなんて……! あらやだ、むしろまた人気が出てしまうのではないかしら。絃秀の女装姿は、本当にとっても可愛らしいもの)
それはそれでアリかもしれない、と華雪はうなずく。
しかし、現状そういった噂が出ていないところを見ると、陵威は沈黙を守ってくれているようだ。
絃秀は朗らかに笑って続けた。
「僕が、ただ民の生活を見聞していただけだと言うと、陵威殿は『それは、素晴らしいことですね』と。それから、他言無用を誓ってくれた上で、いろいろなところに案内をしてくださったんです。さすがに武官だけあって、連れていってくださったのは、品揃えのいい武器屋や、腕のいい宝貝職人の店ばかりでしたけれど……。それまでに行ったことがないところばかりで、とても面白かったです」
「まぁ……」
弟が語った街歩きの様子を、華雪は想像してみる。
――ぴしりと隙のない、いかにも身分の高い武官でございます、という陵威が、絶世の美少女にしか見えない絃秀を伴い、色気も素っ気もない店ばかりを渡り歩く――。
駄目だ。それは陵威が、若い女性の扱いがまったくなっていない朴念仁にしか見えない光景である。
青ざめた華雪は、陵威に深々と頭を下げた。
「陵威さま……。皇太子殿下がご迷惑をおかけしてしまったようで、本当に申し訳ございませんでした」
しかし、陵威は己の置かれた状況をわかっているのかいないのか、どこまでも泰然とした様子である。
「いえ、迷惑などではありませんでしたよ。こちらも、武官仲間とは違う視点で語られる殿下のお言葉に、いろいろと気づかされることがありました。大変有意義な休日を過ごさせていただき、感謝しております」
(……えぇ。陵威さまは武闘大会で優勝するような立派な武官なのですもの。多少の不名誉な噂など、意に介する必要はないのかもしれませんね)
いずれにせよ、今日の大会の優勝者である彼は、縁談に困るということだけはないはずだ。そう思うことで、ちくちくと良心をつつく罪悪感と、折り合いをつけることにする。