冷徹皇太子の溺愛からは逃げられない
「いけませんよ、ウォル様」

 不意にユアンが声を押し殺すように低く呟いた。先ほどまでの穏やかな雰囲気から一変、瞬時にその表情に険しさが走る。

「あなた様の身に何かあっては取り返しがつきません」

「……俺は何も言ってないぞ」

「お仕えして長いので、ウォル様のお考えはわかっているつもりです。とにかく、私が止めに入りますからここを動かずにいてください」
 

 男は給仕を睨み付けていたが、震えているだけの相手に面白みを欠いたのか、やがて突き飛ばすように手を離した。給仕が尻餅をつくのを見て、今日はこれで勘弁してやる、とニヤリと笑い、男はドカドカと大股で歩き出す。周囲に群がっていた人々が慌てて道を空けるが、運悪くその先の道で遊んでいた四歳ほどの男の子が逃げ遅れた。

「邪魔だ、ガキ!」

 怒鳴られた子供は、突然のことに顔を強ばらせ、身体が硬直したように動けない。

「どけって言ってんだろうが!」

 男が子供めがけて右足を蹴り上げようとしたその時だった。


「やめて!」

 あたりに高い声が響いたかと思うと、ひとつの人影が子供の前に飛び出した。十七、八歳ほどの若い娘だ。

 驚いた男の動きがピタッと止まる。

「こんな小さな子に手を上げようとするなんて、どうかしてるわ」

 その娘は物怖じせず、立ちはだかるように両手を広げ、酔っぱらい男を見上げていた。

 微風に溶け込むように緩やかに揺れる、艶やかな蜂蜜色の長い髪と白い肌。初夏の鮮やかな葉の色を思わせる緑の瞳には芯の強さが宿り、薄桃色の小さな唇はキュッと真横に引き結ばれている。その凛とした表情は誰の目から見ても美しい。

 若草色の長袖ワンピースに編み上げブーツというシンプルな出で立ちだが、服の生地も仕立ても良い。貴族ではなさそうだが、そこそこ裕福な商人の娘かも知れない。

「さ、早く逃げるのよ」

 娘の声に、子供は我に返ったようにうなずくと一気に走り出した。

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