エリート弁護士と婚前同居いたします
「茜!」

その時、背後から周囲の空気を切り裂く声がした。今、一番聞きたかった人の声。ハッと顔を上げて振り返る。目の前には私に向かってビル内を走って来る朔くんがいた。その表情は眩いほどに輝いている。

「……朔くん」
ポツリ、と声がもれた。
その姿と声に視界が滲みそうになる。

「どうした? なにかあったのか?」
私の強張った顔を見た朔くんが、瞬時に焦った表情になり、ざっと私の全身に視線を這わす。ふるふると首を横に振る。

いけない、ここは朔くんの職場。こんなところで泣いたりしては迷惑がかかってしまう。
こぼれそうになる涙をグッと押しとどめる。必死で笑顔をつくり、バッグからそっとキーケースを取り出した。
念のため、人目につかないように茶封筒に入れて来てよかったと思った。ここでは目立ちすぎる。

「大丈夫、何もないよ。鍵を届けに来たの」
できるだけ平静を装って小声で答える。差し出した茶封筒を見て朔くんが破顔した。
「え、わざわざ? 助かる! 忘れたなって事務所に着いて気づいたんだよ。ありがとう」
茶封筒を受け取りながら、彼はいつもと変わらない笑顔を見せてくれた。

「あ、あの。じゃあ私、帰るね」
そそくさと脇を通り過ぎようとすると、朔くんが私の右手首をつかんだ。
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