エリート弁護士と婚前同居いたします
「色々なことを先読みして、感情を後回しにしていくことがいつの間にか当たり前になっていた自分に気づいて、嫌になった瞬間だった。それから親子を見送った女性が俺の前に来て言ったんだ。手を怪我をしていると」
「え?」
フッと彼は口角を上げた。

「俺はその傷に気づいてなかった。確かに右手の甲が斜めに切れて、血が滲んでいた。彼女は屈託なく笑って、俺に絆創膏を貼ってくれたんだ」
「それは男の子とは関係ない傷、よね?」
確かめるように尋ねる。彼は小さく頷いた。
「ああ、仕事中に切ったんだと思う」
「そう……」
そこまで言って、彼は私の正面に向き直った。

「大丈夫? 大変だったわね」
彼が言う。
「朔くん?」
何を言っているの?
「絆創膏を貼ってくれた時、彼女がそう言ったんだ」
朔くんは、そっと私の頬に長い指で触れた。

「俺の傷を心配している言葉だってわかってた。だけどその何気ない温かい労りの言葉にハッとした。人を思いやる裏表のない笑顔がただ嬉しかった。自分のことばかり考えて、余裕のない自身を恥じたよ」
俺は男の子に声すらかけられなかったから、そう言って彼は悲しそうに微笑んだ。

何を言えばいいかわからず、私は彼の目を見つめる。
酷薄そうに見えて、実は誰より優しい心の持ち主の彼はきっと、その少年に声をかけられなかった自分を悔いている。朔くんは小さく首を振った。

「彼女の笑顔に俺は人として大事なことを思い出した。今までの自分の思い上がりや不甲斐なさが情けなかった」
晴れやかに彼は微笑む。
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